ベラルーシの名所
ベラルーシの基本情報と歴史 |
ソ連崩壊後 15に分かれた国の一つ 位地はバルト三国の南 ポーランドの東 面積は日本の半分程度
ベラは白の意味 ルーシはロシアの事 そのため白ロシアと呼ばれている
チェルノブイリ原発事故で被害を受けた国 美人の産地 ロシアの美人テニス選手シャラポアの両親もベラルーシ人である
ソ連時代 シャラポアの両親は原発事故の後 ロシアに避難 そのままロシアに移住した後 シャラポアが生まれた
日本人旅行者はベラルーシで5日間有効のアライバルビザ(到着ビザ)が取れる それ以上の滞在はロシア同様 ビザと バウチャー(ホテル等の事前予約)が必要
またロシアからの空路のみの入国が可能 ロシア人とベラルーシ人以外の陸路での入国は許可されていない
芋料理が多い
9世紀頃 スラブ人が住みだした ロシアとベラルーシは同じスラブ系の人種 ベラルーシは西スラブでロシア人が東スラブ
宗教はカトリック(キリスト教)を信仰 一方 ロシアは同じキリスト教でも東方正教会 人種は同じでも宗教が違うため仲が悪い
9世紀~13世紀 キエフ・ルーシ公国の一部になる キエフ・ルーシはキエフ大公国とも呼ばれていた
13世紀 モンゴル軍によりキエフ大公国は滅びる モンゴル軍の目的は略奪のみ 占領はしなかった
その後 ポーランドの王様を兼ねる リトアニアがベラルーシを統治する ポーランドリトアニア共和国となる
モンゴルが衰退したことポーランドはロシア方面に勢力を伸ばす 一時はモスクワまでポーランドが制圧する
17世紀(1654年~1667年) 12年~13年間 長期にわたるロシア ポーランド戦争が起こる
ベラルーシの人口は240万~140万と100万人近く減少する 虐殺が行われた可能性が高いとされている
1696年 公用語がベラルーシ語からポーランド語に代わる
ベラールーシはロシアと同じキリル文字表記 ロシア語とベラルーシ語は30%ほど同じ 文法も同じで同じ単語も多い
一方 ポーランドはラテン語系の言語
18世紀(1772年) 一回目のポーランド分割が起こる
ドイツの前景の国 プロミアと帝政ロシア とオーストリアの3か国により分割される
その時 ベラルーシ東部は帝政ロシアに編入される
1793年 2回目のポーランド分割ではベラルーシの中央部も帝政ロシアに編入される
1795年 3回目のポーランド分割ではベラルーシ全土が帝政ロシア領となる
プロシア(現ドイツ)はポーランドの領地を徐々に占領する
南側からはオーストリアが徐々にポーランドを占領する やがてポーランドは完全消滅する
20世紀(1914年) 第1次大戦勃発 ベラルーシ人の4分の1が戦死する
1919年 バルト三国のリトアニア(旧ソ連)が先に独立を果たす
翌年には 再びポーランド 帝政ロシア戦争が勃発する 結果 戦争に負けた帝政ロシアは領土を減らした
西ベラルーシがポーランド領となり 東ベラルーシは帝政ロシアとなる
ロシア革命が起こり 帝政ロシアはベラルーシ領を放棄する その時 ベラルーシは一時 独立を宣言する
1943年 ドイツがポーランドに侵攻し第2次大戦が勃発する
戦後 ソ連軍によりベラルーシはドイツから解放される そしてベラルーシは そのままソ連の領土に組み込まれる
ソ連のアフガン侵攻の際は多くのベラルーシ人も動員され多くの犠牲者を出している
1990年 ソ連邦崩壊により独立を果たす 独立後も国家が経済を統制する社会主義体制を維持する
ルカシエンコが19年間 ベラルーシの独裁者を勤める またルカシエンコはヨーロッパ最後の独裁者とも言われている
ルカシエンコはロシアとの関係重視する一方 欧米各国とは対立姿勢の政策をとる
反米国家 イランやベネズエラと親交関係にある しかし近年は不況の影響もあり欧米諸国と歩み寄り姿勢をとっている
首都ミンスク |
独立広場 レーニン像
ゴーリーキー公園
ブレスト市 建物にはドイツ軍の砲弾跡が生々しい
使われなくなった戦車も置いてある
ベロベージュの森 ベラルーシとポーランドの国境 クマやバイソンが生息している
グロドノ かつてはポーランドの首都だったこともある
ソ連時代には映画館として使われていた 独立後は教会として利用
二つの高さ34メートルの塔からなる大聖堂
第2次大戦で戦場となったベラルーシの様子を伝える展示物
国民からダイヤモンドと言われている奇抜な形をした建物
ブレスト |
ポーランド国境近く 勇気と言うモニュメント 町は小さく歩いてみて回れる
ブレスト要塞博物館
13世紀ごろの集落跡遺跡を遺跡保護のためドームで覆った博物館
税関で没収された品々を展示する博物館 キリスト教の絵画 イコンが多い
ベラルーシとポーランドに広がる広大な森 世界自然遺産
ビィテプスク |
ミンスクから東へ約300キロ
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