東ティモール
東ティモール 面積は岩手県と同じ 海が綺麗で森も多い 通貨は米ドルを使用
(歴史)過去にポルトガルやインドネシアに支配される 1999年 国連の仲介で実現した国民投票 その結果2002年 独立
(独立から3年) 国内の物資はほぼ海外からの輸入 一日60円以内の収入 輸出できる唯一の物はコーヒー
全人口90万のうち3分の1がコーヒー栽培に携わっている コーヒーの豆造りは独立前からある産業
首都ディリから80キロ マウベシ 64世帯の意習慣の売り上げは31万円 すべて米ドルで支払われる
インドネシアの頃は品質が悪くても売れていた 安定した収入を得ていた 独立後は質が良くないと売れなくなった
一世帯の年収は4万円 かつての2倍
(独立から6年) ギャング集団や武装集団がいてまだまだ混乱が続く 世界35の軍や警察によって治安が保たれる
国民の7割の若者がギャング集団に所属する 貧しい人も多く土地の奪い合いが続く
土地は紛争や混乱時に奪ったもの 今だギャングの権力が強い
土地を奪われた人々の多くはテントで暮らす
(独立から10年) 1000人を超える犠牲者を出した 天然ガス開発のため国内に中国人が増えた 経済成長率12.8%
6月1日早朝ティモール島クパンに到着 夕方 飛行機でバリ島へ 友人からもらったティーモール島の写真
ティモール島の歴史 |
インド マレー系の人々が島に移住する
紀元前20世紀 パプア系語族がティモール島の東部に移住する
ちなみにティモールとはマレー語(インドネシア語)で東と言う意味
同じころ インド マレー系の人々が移住する(2回目)
3世紀末に書かれた魏志倭人伝(中国の書物)にティモール島が登場する
ティモール島は古里地門となって書かれている
内容はセマオ島の東北にあり ほかの木がないほどビャクダンだけが盛んに茂っている これを銀や鉄 陶器 布 と交換し貿易をしている 港は全12か所 田んぼでは穀物がよく取れる 気候の変化は激しく朝寒く昼間は暑い 男女ともに髪は短く
チャンパ(南ベトナム)製の木綿の布を着ている 市場では酒や肉が売られていてマラリアや病気にかかった話があり 貿易で一儲けできそうだが危険な場所だと書かれていた
16世紀 白人がやってくる前までのティモール島は各部族が勢力を争っていた
そこへポルトガルが香料でもあるビャクダンを求めてやって来る
ビャクダンは香りが強く線香や宗教的な行事に使われた 日本では扇子の骨組みにビャクダンが使われ扇子を仰ぐといい香りがする
1515年 ティモール島 東部は ポルトガル領ティーモールとなる
その後 オランダのドミニコ会 修道院もこの地に入植
ポルトガルの統治はうまくいかず実際は首都ディリのあたりだけを統治していた
1520年 ポルトガル人が島の領有を宣言する
1556年 白人の修道士がティモール島に村を作る
17世紀 オランダ人がオランダ東インド会社の元 西ティモールに入植をし始める
1702年 東ティモールは正式にポルトガルの領土として認められる 当時のポルトガル統治は緩く行われた
1767年 西ティモール島を植民地にしていたオランダがポルトガル領ティモールに攻撃を加えてきた ポルトガルは首都ディリーを動かさざる得なくなった
1799年 オランダ東インド会社が解体され西ティモールを含むインドネシアは正式にオランダの領土となった
19世紀 ビャクダンと言う香料やコーヒーが主な産業となった
ただティモール島のインフラ設備は整わないままでいた
1859年 リスボン条約によりオランダ領ティモールとポルトガル領ティモールの境界線が確定した その時にひかれた国境線は今も東ティモールとインドネシアの国境線として使われている
20世紀に入り ポルトガルは本国の経済が弱体したため植民地を搾取するようになる
1941年 第二次大戦ではポルトガルは中立の立場を取っていたが日本軍にティモール島を占領されるのを恐れたオランダ オーストラリア軍は先にポルトガル領ティーモールを占領してしまう
1942年 日本軍がティモール島全土を占領した 連合国軍1300人は山中に逃れ
首都ディリにいたポルトガル軍は日本軍に抵抗しないまま領土を引き渡した
1943年 連合国軍は日本軍に対してゲリラ戦で対抗した。ティモールの現地人も両陣営に分かれて戦いに参加した
1944年 ポルトガルは日本に対しポルトガル領ティモールから撤退するように要求した
1945年 オーストラリア軍にアメリカとイギリスが加わりティモール島の海上封鎖を行ったため食糧不足となり4万から7万のティモール人が餓死等で亡くなった
日本が降伏した3日後にインドネシアが独立を宣言
戦後 日本軍が撤退したのちティモール島にはオーストラリア軍が駐留し続ける
東ティモールは再びポルトガルの領土となった
(同年 1945年)インドネシア独立戦争(インドネシアVSオランダ イギリス オーストラリア軍)が起こり ティモール島もその戦渦に巻き込まれることとなる
1949年 4年5か月にわたって行われた戦闘で80万人が亡くなった
オランダに勝利したインドネシアは見事に独立を果たした
ただ東ティモールは引き続きポルトガルの統治に置かれる事となった
当時ポルトガルはアントニオサラザールと言う最強の独裁者政権が40年以上続いていた
東ティモールもインドネシアのように独立したいと願っていたが この最強の独裁者により拒まれていた
1974年 ポルトガル本土でカーネーション革命と言う独裁政権の転覆を狙った軍事クーデターが発生する 結果 植民地支配を強く主張していた政権が崩壊する それを受け 東ティモールも独立の動きが一気に加速した
1975年 東ティモール民主共和国として独立宣言を行う
同年 インドネシア軍がティモール島に進行し併合を宣言した
1977年 当時のインドネシアはスハルト大統領(2代目)が勤める独裁国家だった
そんな独裁政権は東ティモールに対し徹底的な弾圧を加える
インドネシア統治下での東ティモール人の死者は20万人とも言われている
1991年 インドネシア統治下にあった東ティモールで平和的なデモが行われていた そこにインドネシア軍が無差別発砲を行い約400人が殺害された
1998年 インドネシアはスハルノからハビビ大統領(3代目)になり当時 インドネシアの統治下にあった東ティモールに特別な自治権を認めるかどうかの住民投票を実施すると宣言した
1999年 国連の仲介で実現した国民投票の結果 独立派が勝利した
インドネシアは5500人の軍を東ティモールに送り国連軍と衝突した
そのとき東ティモール人の虐殺が行われた
多くの東ティモール人が西ティモールへと逃げていった(強制移住させられた人もいる) また国連軍との戦闘に敗れたインドネシア軍も西ティモールへと逃げていった
オーストラリア軍が主体となった多国籍軍が東ティモールに入り治安維持にあたった
2002年 東ティモールが独立を果たした
東ティモールは21世紀最初の独立国家となった
キリスト教徒(カトリック)が全体の99.1%を占める
アジアではフィリピンに次いで2つ目のキリスト教徒が多い国となった
独立後は日本の自衛隊もPKOとして派遣された
2006年 西ティモール出身の軍人が東ティモール人との格差(昇進や給料面での)から不満がつのりストライキを起こし ストライキが暴徒化した。
外国の軍が出動し東ティモールの治安維持にあたった
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