クウェート
基本情報
面積は四国と同じオイルマネーで豊かになった国
隣国イランイラクはシーア派 クウェートはイスラム スンニ派が多数 世界的にもスンニ派のほうが多い
石油大国の恩恵を受け一人当たりのGDPは高いが民主化指数は100位以下とかなり低い
小学生が学校の授業で革命の質問をしただけで逮捕されるくらい表現の自由がない
(アラブ人の名前)最初が本人の名前 続いて父方の名前 3番目におじさんの名前 最後に名字の順
男女とも子供が生まれると名前も変わる 名前が長いのが特徴
気温
最高気温の記録は54度 例えば51度あった日は49.9度のように 天気予報では気温が 少し少なめに発表される
歴史
クウェートは1961年 イギリスから独立する際 新しく出来た国で それより前は ずっとイラクと同じ国であった
16世紀 オスマントルコがイラクを含むクウェートのあたり全体を統治していたころ クウェートがオスマンの首都イスタンブール(トルコ)までの距離が遠かったため緩い支配で済んだ
サウジアラビアのサウド家に追われたサリフィーハ家がクウェートに逃げ込む
当時イギリスはシリアのアレッポに拠点を置いていた オスマントルコとペルシャが戦争になりシリアのアレッポも巻き込まれる
当時 サウド家とオスマンの関係は悪かった そしてサウジのサウド家はオスマンの占領下にあったクウェートに侵攻する
1783年 イギリスがクウェートをまもるためインドから軍艦を送った そしてイギリスがクウエートからサウド家から撤退させた
その時イギリスに助けを求めた人がクウェートの初代首長となる
1896年 首長ムハンマドはオスマンの言いなりで国民の支持を得られなかった 一方 首長の弟 ムバラクは人気者であった
それでもムバラクは酒と女にうぬぼれインドへ逃げる その後 イギリスが人気者のムバラクを援助し利用することになる
ムバラクはイギリスの力を借り兄を殺してしまう オスマンは激怒する
ムバラクが首長となりイギリスの保護国となる クウェートの外交もイギリスの相談なしでは行えなくなる
オスマンがクウェートに侵攻するがイギリス軍の反撃を受け撤退する
第1次大戦後でオスマンが敗北し 中東一体 エジプト イラク パレスチナ レバノン シリアなどを一括まとめて イギリスの領土となる
クウェートはもともと真珠産業が盛んであった 1936年 ちょうど真珠産業が衰退しかけた時に石油が発見された
アメリカやイギリスは石油発見以前から両国で合同会社を作り発見後に石油の利権を独占した
しかし 石油発見後 すぐ第2次大戦が勃発し 正式に採掘がはじまったのは戦後 1946年の事だった
1961年にイギリスから独立 独立直後 すぐにイラクがクウェートを併合すると宣言する
もともとイギリスが入って来るまではイラクとクウェートは同じ国であった さらに言えばイランもクウエートも同じアラブ人
クウェートはイラク同様 独立したのちも民主化はあまり進まなかった
1973年 中東戦争が勃発 その時イラクは2度にわたりクウェートに侵攻した この時は両国の外務省同士の話し合いで解決した。
1980年から1988年に起こったイランイラク戦争 イラクは その戦争で手一杯となり クウェート侵攻は2の次となった
またクウェートもイランのイスラム原理主義が拡大するのを恐れイランイラク戦争ではイラク側を支持していた。
そればかりか のちにイラクと何度も戦争を行うアメリカも この時はイラクを支援していた。
イランイラク戦争が終わるとイラクは再びクウェートに侵攻する イラクはアラブ連盟の事務総長にクウェートをイラクの19番目の州にすると宣言する
その後 湾岸戦争 イラク戦争 得て 今に至っている
観光名所
3本ある塔のうち一番高いのは187メートル
直径26メートル 高さ43メートル 1万人収容できる
端から端まで17キロしかない小さな島 紀元前4世紀 アレクサンドロスの兵が住み着き
島にはアレクサンドロスのギリシャ様式の遺跡が多く残っている 過去には年50万の観光客が訪れていた
しかし戦争の被害を受けた 島には戦争の時 兵士が乗り捨てて言った戦車の残骸が残っている
さらに多くの地雷や弾痕も残っている イラク進行以前は400人ほどが暮らしていたが廃墟となった今では住む人がいなくなった
ただ週末には船に乗り里帰りする人々がいる 戦後13年がたちイラク政府も倒れ外国からの支援も増えつつある
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