追加情報 ネパールの歴史2
19世紀 チベットもネパールも鎖国をしていた
1804年 ネパール王国はセーナ王国(ネパール)を併合しブータン王国やキッシム王国(インド ダージリン)と国境を接するまで領土を広げる
1814年 イギリスとネパールの間で戦争が勃発する グルカ戦争と言う 2年間 続いた戦争
戦争の原因は両国の領土拡大にあった
イギリスはチベットまで攻めるが清(中国)の軍隊に敗れる
戦闘の結果はイギリスの勝利でネパールは今のインド ダージリンなど3分の1の領土を失う
ネパールはイギリスの保護国になりネパール王政の維持を認められた イギリスはネパールに駐在官を置くこととなる
イギリスはネパールに勝ってもあまり得るものがなかったため早めに和平を結んだ
そのため ネパールはイギリスの植民地にされずに済んだ
1846年 ジャンハバハトゥール(王)による王宮大虐殺事件が起こる 当時 政治の実権を握っていたのは王ではなく皇后(王の妻)の外国籍の愛人であった
それを不満に思ったバハトゥール(王)が宮廷内で家来たちを皆殺しにした大虐殺事件が起こった
その後 バハトゥールの兄弟他 身内からなる政権が誕生する
1848年 反乱の後 政権を取った 王族たちはラージプートの名門 ラナ家となる 以降 104年間 世襲制のラナ家が実権を握る
1852年 ピーク15(のちのエベレスト山)が世界一高い山となる
その後 測量長の名前にちなんだエベレスト山という名がついた
ヴィクラマーディヤ王がシャカ族(インド系)に勝利した記念の年号
1857年 インドでイギリス統治の不満から始まったインド大反乱(セポイの戦い)ではネパールは英軍の援助にあたった
1896年 ルンビニがブッタ誕生の地であることが明らかとなった
その石碑が発見されるまでは荒地だった その石柱には秘文が書かれていた
1914年 第1次大戦ではネパールは連合国軍側に回り戦った
1919年 英アフガンの戦争でもネパールはイギリスの援助した
1921年 エベレスト登山はイギリス人が挑戦するが10回も失敗を繰り返す
1923年 イギリスと友好条約を結ぶ ネパールはイギリスの保護国ではなくイギリスから独立国として認められた
イギリスがインドから去ったあとネパールで暴動が起き
王朝が崩壊し ラナ家がネパールを支配することになる
1924年 登山家マロニーがエベレスト登山中 行方不明になってしまった。
1934年 インドとネパール国境近くでマグニチュード8.1の大地震が発生し 当時ネパールは鎖国体制を取っていたため はっきりとはしてないが 少なくても1万人以上の人が亡くなった
1939年 第2次大戦ではネパールは連合国軍として戦った
1945年 第2次大戦後 それまでネパール国王を支えていたイギリスがインドから撤退する それに伴い それまで王政に反対していた市民が暴動を起こす
1947年 ネパール国民会議派(のちのネパール会議派コングレス党)が結成される
1949年 ネパール共産党が結成される
1950年 ネパール会議が結成されラナ家を打倒しようと言う方針が固まった
軟禁されていたラナ家はインドへ亡命し亡命政府を立ち上げた
王室内で殺人事件もあった しかし1950年 市民革命により
腐敗していたラナ家は その後 ラナ家はインドに亡命
のちに国王が政権を奪回する 一応 立憲君主制だが
選挙は地方のみ 中央政権は王の権限が強かった
腐敗も進んでいたため 暴動が発生 100人以上が亡くなる
その後も何度も主権が入れ替わり 政治不安が続く
(同年)ネパールはそれまでの鎖国をやめ インドと貿易するようになった
インドは安い工業製品を大量にネパールに輸出した そのためネパールでは国内の繊維産業などが大きな打撃を受けた
1951年 ネパールへ戻った王(ラナ家)は政権を国民会議派に譲った そしてネパールは立憲君主制となる
1953年 エドマンドヒラリー(ニュージーランド人)とテンジンノルゲイ(ネパール人チベット系シェルパ族)が初登頂を果たす
1959年 ネパール国王が憲法を公布しネパール初の総選挙が行われた
内閣は改革を進めようとしていたが権力を維持したいマヘンドラ国王は それに反対する
1960年 マヘンドラ国王により憲法は停止となり 内閣や議会は国王により一方的に解散させられた 王様クーデターと呼ばれている
首相 政党指導者たちは逮捕された 政権を取った国王はパンチャーヤト制(村でのもめ事は村の長老が裁く 南アジアに残る古い伝統)を導入する
1962年 マヘンドラ国王により政党が廃止などの内容が含まれた新憲法が発表された
1972年 マヘンドラ大統領 死去 長男 ビレンドラが後を次いだ
1980年 パンチャーヤト制(村でのもめ事は村の長老が裁く 南アジアに残る古い伝統)を廃止するか否かの住民投票が行われた
結果 僅差であったが存続が決まった
1982年 エベレストの冬登山に成功し帰り道で遭難して亡くなった
日本人登山家 加藤保男さんの慰霊碑が立っている
1990年 ネパールで国王の独裁政治と王室の腐敗に対する民主化暴動がおこる
100人以上の死者を出す事態に発展する
そこでビレンドラ国王は民主的な新憲法のもとで総選挙を実施した 32年ぶりの選挙となった 選挙では7つの政党が争った
その結果 ネパール会議派が勝利し政権を取った 新政権により民主主義をうたった新憲法が制定された
パンチャーヤト制は廃止となった
1994年 ネパール共産党が第1党を取る
1995年 ネパールの政権は共産党からネパール会議派へと移る
1996年 ネパール政府軍とネパール共産党との間で内戦が勃発する
ネパール共産党(マオリスト毛沢東主義派)は王政打倒とネパール人民共和国の樹立を目指し戦った
また中国がネパール政府軍を援助した 内戦はその後 11年間続いた
1999年 マロニーの遺体が75年ぶりに発見された。
2001年 ネパール共産党は人民解放軍を創設する
2001年に王室で射殺事件が起こる
ビレンドラ国王ら王族9人の射殺事件
皇太子が国王を殺す 理由は皇太子が父親でもある国王に自分の結婚を反対されたため
さらに母親と9人の親族も殺害される その後皇太子は自殺
自殺したとなっているが後ろから撃たれた跡が残っている他殺の可能性も大いにある
また泥酔していたとされている皇太子からはアルコールは検出されていなかった
すべての遺体は検死されることなくだびに付された 事件の真相はいまだ闇の中
アメリカは共産党打倒の目的で国王側に武器を援助していた 一方 武装した農民がマオイストと合流し混乱に拍車をかける結果となった
第12代ギャンドラ新国王(親インド派)が誕生した 最後の国王となった
ちなみに殺害されたビレンドラ国王は親中国派
(昔も王室内で殺人事件があった そのとき104年間のラナ家統治が終わる)
2002年 ギャネンドラ国王失脚
2006年 ネパール政府と共産党の間で和平が合意し11年続いたネパール内戦は終結した 戦後は国連が停戦監視にあたった
2008年 民主的な選挙が行われ 共産党毛沢東主義派(旧武装勢力)の勝利 武装勢力が躍進した
それに伴い 240年間続いたネパールで王政が廃止となる
ネパール王国は滅亡し 代わりにネパール連邦民主共和国となる
イランのように革命で王政が廃止になることがあっても選挙で王政が廃止になるのは珍しい
しかしそのあとも混乱は続く
その後1年以上 政情不安が続く
電力とガソリン不足 激しいインフレが原因
治安が乱れ国連軍が介入
2013年 選挙が行われネパール会議派が政権を取った
2014年 選挙でネパール会議派から新しい首相が選ばれた
2015年 カトマンズの南西約80キロ マグニチュード7.8の大地震(ネパール地震)が発生する
<目次>
追加情報 ネパールの歴史1
追加情報 ネパールの歴史2
1ネパールの基本情報
3カトマンズ市内の情報
4カトマンズ(ダルバート広場)
5カトマンズ盆地と郊外
6カトマンズ郊外(ランタン国立公園)
7ポカラとマチャプチャレ登山
8ポカラ発アンナプルナ登山
9ヒマラヤの基本情報と
登山の歴史について
10ヒマラヤ登山
(初級~中級 カトマンズ発)
11エベレスト登山(上級編)
12チトワン国立公園
13ルンビニ(ブッタのふるさと)
14その他の名所
15ネパール料理
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