2日本内戦勃発 応仁の乱 明 北京遷都 モンゴルの反乱 土本の乱(15世紀)
15世紀(1401年~1500年) |
15世紀 カシュガル(ウイグル)一帯はティムール帝国(ウズベキスタン)の支配下に入る
15世紀初頭明代 九塞溝から約100キロのところに松藩という町が築かれる
当時 松藩は明とチベット王国の国境の町であった 漢民族とチベット民族の不仲はそのころから始まったとされる
松藩には今も昔も多くのチベット人が暮らしている
室町幕府(日本)は明(中国)の属国になることで経済的な恩恵を受けた。
やがて日本には明のお金が流通した。
1404年と1419年
1404年 李氏朝鮮は日本の室町幕府と国交を結ぶ また李氏朝鮮は明(中国王朝)とも友好関係を築く
鄭和の大航海 船でアフリカまで到達した。
1405年 ボルネオ島(マレーシア)とフィリピン(スールー海、パラワン島)の あたりにブルネイ王国から独立したスールー王国(イスラムスンニ派)が建国される
公用語はアラビア語とマレー語を使用していた。
1408年から1966年 朝鮮王陵の王墓群 ソウル(14から20世紀にかけて 李氏朝鮮の歴代王の墓)
明の十三凌(北京郊外) 明代の十三代皇帝のお墓 中には自らの人生を自らのは墓作りの為だけに費やした皇帝もいた
陳朝の大越は滅亡する 次にベトナム北部を統治した胡朝は たった7年で消滅した
ハノイにホー王朝(胡朝1400年~14007年)の城塞が建設される
その後 再び陳朝が統治し後陳朝となるが 後陳朝も数十年統治したのちに崩壊する
北ベトナムで起こった陳朝と胡朝の内乱に明が介入 そのとき明は多くの中国文化をベトナムに輸出した
その後 北ベトナムは20年間 明の支配下に置かれる
永楽帝(明3代皇帝)が道教の聖地 武当山(湖南省)に城(寺)を建設 山頂には黄金の金殿が建てられた
1419年 李氏朝鮮は倭寇(海賊)退治を理由に対馬に攻め込むが返り討ちに会う
1419年 正陽門(北京) 元代 大都時代に造られた南門を明代に800メートル移動
1420年 太和門(北京) 明代 紫禁城(故宮)内に建設 明と清 あわせて24人の皇帝が使用した宮殿 太和門内の武英殿も同様
1420年 天壇公園(北京) 明代
明の第3代皇帝 永楽帝が明の都を南京から北京へと移した
もともとは宮廷料理の一種であった北京ダックもそのころ初めて作られた
そのとき北京の故宮を明朝が中華風に改築した
1422年 座喜味城跡 琉球王国 沖縄 15世紀(1416年-1422年)
1422年 エイティガル寺院(カシュガル) 西域最大のイスラムモスク 1872年に改築
北ベトナムは明の支配から脱却
黎朝(レちょう)がベトナム北部を統治する 黎朝(ベトナム王朝)は白い象の宝物をめぐって隣国のランサーン王国(ラオス)との関係が悪化する
室町幕府(日本の中央政権)とは別に沖縄に北山、中山、南山の3つの王朝を統一した琉球王国が誕生する
琉球は明朝(中国)の属国として明に朝貢(税金)を納めていた。
黎朝(ベトナム北部)とチャンパ王国(ベトナム中部)の間でたびたび紛争が起こる
1446年
ハングル文字が発明される
1447年 タシルンポ寺(チベット) ダライ・ラマ5世が築いたチベット寺院
土本の変 モンゴル高原とウイグルから中央アジアまでを統治するオイラトが明を攻撃する
明の8代皇帝は自ら戦場に出向き捕虜となる前代未聞の事件が発生する
この戦いはオイラト(モンゴル)の勝利 明は占領こそされなかった物の以後100年間 遊牧民に たびたび攻撃をうける事となる
明朝は陸からはモンゴル遊牧民 海からは倭寇(日本の海賊)に攻めれれる事となる
1455年 岡崎城 (愛知)
当時まだ室町幕府(日本の中央政権)の統治下になかった北海道でアイヌ人と本州和人(日本人)との間でコシャマインの戦いが行われた 結果は和人(日本人)の勝利
室町幕府が統治する日本(北海道と沖縄を除く)では 3年間にわたって 長雨と干ばつが交互に襲った
都(京都)では飢えと疫病で約8万4千人が亡くなった それら大量の遺体を鴨川(京都)に捨てたため死体の悪臭が京の街にあふれた
室町幕府の後継者争いが発端となった 応仁の乱が始まる 日本全土(北海道と沖縄を除く
)が内戦状態なる
日本は戦国時代に突入する
1469年 犬山城 (愛知)
1469年 虎山長城(遼寧省 丹東) 明が後金の侵入を防ぐために建設した。長城は北朝鮮の領土までつながっている
京都でおこった内戦は日本各地へと飛び火した すると京都へ集まった兵も救援のため地方へと散らばっていった
そこで やっと6年間続いた京都での戦闘が終結した。
京都は焼け野原となり 足利将軍が築いた豪華な宮殿 花の御所も死体の捨て場と盗賊のたまり場となっていた
11年間続いた応仁の乱は終わった 一人の女(後継者争いを引きここした犯人)の野心の代償としては あまりにも大きすぎた 応仁の乱であった
日本では応仁の乱が終わっても戦国時代(内戦状態)が続いていた。室町幕府は すっかり衰退し日本は無政府状態となっていた。
中国 マカオにマカオの地名の由来ともなった媽閣廟マー コミュウというお寺が建てられる
黎朝(ベトナム王朝)は北だけでなく南ベトナムの大部分を制圧した さらに 黎朝(ベトナム王朝)が50万の兵を引き連れ隣国ランサーン王国(ラオス)を攻める
一時 ランサーン王国の首都ルアンパバーンは壊滅状態となりながらも黎朝(ベトナム)の軍勢を撃退する ラオスはベトナムの進行を退いた
1500年 フィリピンのマニラ王国(ルソン国)はブルネイの支配下にはいる またブルネイはルソン島へも進出し ルソン島の何人かの首長はブルネイのスルタン(王)の娘を妻にしていた
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1ペストの世界流行①室町②明③李氏朝鮮が誕生(14世紀)
2日本内戦勃発 応仁の乱 明 北京遷都 モンゴルの反乱 土本の乱(15世紀)
3大航海時代到来 フィリピン スペインに占領される(16世紀 前期)
5ベトナムホイアンの発展①江戸幕府②清が誕生(17世紀 前期)
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