ブルネイの歴史
北ベトナム ドンソン文化の銅鼓がボルネオ島 最北部(マレーシア ブルネイ)で見つかっている
ボルネオ島(マレーシア ブルネイ インドネシア)で稲作が始まる
ブルネイ王国は中国貿易をするために宋(中国南部)の皇帝に貢物を送った
マレーシア(ボルネオ島) フィリピン ブルネイを含む領土はインドネシア ジャワ島のマジャパヒト王国の属国となる
明(中国)がフィリピンに使節を派遣した さらに明に住んでいたアラブ人がブルネイ(フィリピン ミンダナオ島)にイスラム教を広めた そのためフィリピンでイスラム教を信仰する人が増え始める 明とトンド王国 ルソン国、呂宋国(フィリピン)との貿易も盛んになる
ブルネイは中国との貿易を行うため明の永楽帝に貢物を送る
ボルネオ島(マレーシア)とフィリピン(スールー海、パラワン島)の あたりにブルネイ王国から独立したスールー王国(イスラムスンニ派)が建国される
公用語はアラビア語とマレー語を使用していた。
フィリピンのマニラ王国(ルソン国)はブルネイの支配下にはいる またブルネイはルソン島へも進出し ルソン島の何人かの首長はブルネイのスルタン(王)の娘を妻にしていた
現在のボルネオ島の小国ブルネイは 16世紀 当時はフィリピンのミンダナオ島からボルネオ島(※インドネシアの一部を含む)まで統治する大きな国だった
スペインから来たマゼラン船は最初にセブ島(フィリピン)に上陸する しかし島民の逆襲に会い船長のマゼランが戦死する
船長を失ったマゼラン船は次にブルネイ王国(イスラム)に上陸した。当時 ブルネイには もうすでに2万5000戸の水上家屋が建っていた。
マゼランのスペイン戦に続き マラッカから東に進んだポルトガル船がブルネイに上陸した。ポルトガルはブルネイをマカオ(中国)との中継地として利用した。 当時ブルネイ王室はマニラの首長と婚姻関係にあった
ところがブルネイと友好関係にあったフィリピンはスペインに占領されてしまう
ブルネイはポルトガルと交易を始める
ブルネイはタイへ貿易船を派遣する
セブ港はポルトガルの攻撃を受ける ブルネイ王国はスペインとポルトガルの戦いの巻き沿いを食う形で自国の領土を次々とスペインに奪われて行った
ブルネイはスペイン ポルトガルからの植民地支配からは逃れた物の重要な貿易相手(フィリピン等)を失い 以後 衰退の道を歩む
ブルネイとスペインの間に和平が成立する
ブルネイ王室内で内紛が発生し それを鎮圧したスールー王国がマレーシア サパ州を割譲する
ブルネイ王国で反乱がおこり その際 ブルネイ政府からの要求でスールー王国(フィリピン)が軍を派遣し反乱の鎮圧にあたった
ブルネイでは水上集落内に王宮が造られた。※今はもうない※
同じく19世紀頃 ボルネオ島を統治するブルネイ王国は首狩り族により治安悪化に悩まされていた。
そこでブルネイ王国はイギリス人の探検家ジェームスブルックに首狩り族 イバンの鎮圧を依頼した。
ブルックはイギリス本国の協力を得て話し合いだけで部族の鎮圧に乗り出します。そして見事に鎮圧に成功します。
ブルックはブルネイ国王からその功績を認められクチン(マレーシア サラワク州)の統治権を任されることになります。
ボルネオ島に初めての白人王が誕生します。
新たに誕生したサラワク王国は それまでブルネイ王国やイギリスが行ってきた奴隷貿易を廃止した。
サラワク州と北ボルネオ サラワク王国(ブルネイを含まない)がイギリスの植民地となる
日本軍がマレーシア ミリやクチンを占領する
ブルネイはマレーシア同様 3年間 日本の支配下に置かれる
日本の統治下でブルネイ王国とサラワク王国(イギリス領)の国境が撤廃された。
首狩り イバン族は日本統治に抵抗した
ブルネイを除くボルネオ島はサラワク王国 統治からイギリス統治へと変わる
インドネシア独立戦争後
ボルネオ島 南部はインドネシア領となる
北ボルネオ(ブルネイを除く)はイギリス統治からマレーシア統治へと移行する
イギリスの保護下に置かれていたブルネイが独立を果たす
イギリスの保護下にあったブルネイは治安が乱れ さらに国民は貧しかった
独立後も貧しかったが今は石油産業が潤い裕福になった
ブルネイの歴史
1ブルキア〃イケメン〃国王
2ブルネイの水上集落
3ブルネイ~旅行記(ビデオ資料ほか)~
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