漢王朝(中国大陸) 紀元前3世紀~紀元3世紀
紀元前12世紀 漢王朝(中国大陸) |
〇鎖陽故城(鎖陽城 楡林窟から約50キロ 瓜州の州都) 人口2万 今は辺境 唐の時代の壁画が描かれている
今でも1500年前の壁画に書かれたのと同じ農機具を使っている
唐の時代 三蔵法師は鎖陽城からインドに向けて旅立つ 15年後 再び楡林窟を訪れ宝物を収める
紀元前3世紀 前漢(中国大陸の王朝) |
閬中ろうちゅう 人口80万 2300年前 秦が築いた
〇古い瓦屋根の民家(麗江のよう)
紀元前2世紀 前漢(中国大陸の王朝) 王の墓 |
(西漢南越王博物館 秦の後に出来た国 広州を都とする南越に関する博物館)
漢代長城 玉門関 |
〇わらと土でできた漢代長城(敦煌から約50キロ) 〇陽関跡(敦煌から70キロのところにある長城)
〇陽関遺跡(敦煌から約70キロ) 紀元前2世紀 漢の武帝が造った関所 軍事施設跡
〇玉門関(敦煌から約93キロ 四角いピラミットのような遺跡)紀元前2世紀
エンデレ古城 遺跡 |
(エンデレ古城 遺跡)砂漠に木柱がいくつか建てられた遺跡 仏塔の周りには陶器が散乱 大仏が安置されていた回廊跡
(行き方)大馬札まで車で行きそこからラクダに乗り 30キロの教理を一日かけて進む 砂漠の中の高さ6メートルの遺跡 痛々しい盗掘の跡
1906年 スタインを遺跡まで案内したという老人92歳 人骨やミイラも出土 漢文とカロシティ文字(古代インド?)が書かれたコイン
紀元前2世紀から漢(1世紀)の時代まで栄えた 4世紀中ごろ消滅 はっきりとはわかっていないが川の流れが変わり水が枯れたことが原因だと考えられている
紀元1世紀 漢王朝(中国大陸) 白馬寺 |
(白馬寺)紀元前 仏教が初めて中国に伝わったころ
皇帝の遣いがインドから来た2人の僧が白馬に乗っているのを見たのが始まり
光武帝陵 |
(光武帝陵)
漢王朝の皇帝 光武帝(紀元前6年 – 紀元57年)儒教思想を重んじた光武帝
その後漢時代 洛陽を中心に文化が花開き200年の栄華を誇った
後漢時代ののち三国志の戦国時代がやってくる
関林 |
(関林)
三国志の関羽(かんう)を祀った寺
黄金の関羽 顔が起こっている 黒い紐のように長いひげが特徴
摂摩騰の墓 |
(摂摩騰しょうまとう)別名 迦葉摩騰(かしょうまとう)とも言う
インドから中国へ仏教を教えに来た僧侶 西暦68年年白馬寺に住み四十二章経と言う仏典を翻訳した
今 摂摩騰は全身黄金に輝き祭壇のところに座り続けている
摂摩騰の墓も残っている
その後 仏教は儒教と対立することなく取り組まれていった
特に騒乱に明けくてた三国志時代(180年頃 – 280年頃) 人々は平和を願い 仏教を信仰する人が増えた
明月峡 剣問関 |
明月峡(嘉陵江 四川北部) 蜀の道 〇岸壁に作られた木造の歩道(桟道)2000年前は50キロ 今は1.5キロ 木を差し込んだ穴だけが残っている 劉備に関する寺
諸葛孔明(秀才)も桟道の建築にたづさわった石碑が残っている 三国志時代の蜀と魏の国境があったところ 孔明の北伐
剣問関 1992年に復元
アパク ホージャ |
〇アパク ホージャ(モスクのような建物のお墓)1670年創建 1974年改築 清代 外観はタイル造り 中にはタイルで造られた棺がいくつかある
(班超記念公園)1世紀 漢代の優れた軍人(エスフハズジャジェブ墓)色鮮やかなタイルで飾られたモスクの様な造り 小学校内にある
紀元2世紀 後漢(中国大陸) |
〇法門寺 仏舎利 〇漢陽陵博物館 陽陵 陶製俑 〇楊貴妃墓 〇興教寺 三蔵が眠る寺
紀元3世紀 漢(中国大陸) |
赤壁 三国志の時代 赤壁の戦いが行われた場所
北の曹操が大量の船で攻めてきたとき南の劉備と孫権の連合軍が火をもって奇襲攻撃をした
その時の戦いが赤壁の戦い 3世紀 赤壁の赤は戦火で燃えた船の色 戦争は南の連合軍が勝利
赤壁博物館 曹公し 曹操将軍の人形が展示
コメントを残す