追加情報 香港&マカオの歴史
1488年 マカオの地名の由来となったお寺が建てられる
1513年 マカオへ初めてポルトガル人が上陸した
ポルトガル人はマカオに居住地を置き 明朝(中国)や日本(室町~戦国時代)の貿易拠点とした。またマカオはキリスト教の布教活動の拠点ともなった。
1517年 ポルトガル人に香港(清領)のランタオ島を占領される事件が発生する
1550年 ポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマはアフリカ喜望峰とインドゴアとマレーシアマラッカを経由しマカオへ到達した
マカオには7つの丘があり リスボン(ポルトガル)の地形とよく似ていた その後 400年以上 マカオはポルトガル人が住み着き大繁栄を遂げた
そのときポルトガル人はマカオに多くポルトガル風の教会を建て残していった
1552年 ザビエルのメモには日本では大量の銀が取れると書かれていた。 ポルトガル人は日本の石見銀山で安く買った銀をマカオで明に高く売っていた
明(中国)では銀は取れなかった
ポルトガル人は銀で明から絹や陶磁器を買いヨーロッパに持ち帰っていた
(同年)フランシスコザビエルが中国の布教先で亡くなる
その後 ザビエルの遺体は分散されマレーシアのマラッカやインド ゴア マカオなどに移される
1557年 マカオが正式にポルトガルの植民地となった ただ明朝(中国)が認めたと確認できる資料は残っていない
1563年 明朝(中国)が当時まだ未開発であった香港のあたりに水軍(海軍)基地を置いた
1581年から51年間 スペイン帝国時代 スペインの王がポルトガルの王も兼ねていた
1582年 イタリアの神父マテオリッチが中国で布教活動をするためにマカオに上陸した
苦労を重ね20年かけて北京に天主堂を建てることを許された
1602年 マカオに聖ポール天主堂が建てられ
た 建設には20年の歳月を要した。
聖ポール天主堂の門に刻まれた漢字は徳川幕府の宗教弾圧に会いマカオに逃れてきた日本人クリスチャンが彫ったものだとされている。当時 中国で使われていた漢字とは異なるらしい
聖ポール教会は 1835年 火災で前門だけが残る
1622年に建てられたマカオで一番高い海抜92メートルにある要塞 頂上には灯台と教会がある
(同年)マカオにあるモンテの丘はポルトガルがオランダとの戦いに備えて建てた
イエズス会が9年の歳月をかけ完成させた
丘の上の大砲はどれも中国を向いてなかった
(同年)オランダとスペイン ポルトガルとの間で マカオの戦い が起こる
オランダがマカオの領土を狙って始まった戦争だが 結果はオランダが敗北しスペイン ポルトガルが勝利した。
1639年 江戸幕府は鎖国を始める
日本とマカオの交流が途切れマカオは衰退する その後 マカオは150年間表舞台から遠ざかる
イギリスはマカオから香港へと貿易の拠点を移す マカオの人口は半減する そのころマカオで競馬 宝くじ ドックレースほかカジノが始まった
1835年 聖ポール天主堂が火災で焼け落ち 前門だけが残る
1840年 当時 ヨーロッパと清との貿易を独占していたのはイギリスであった しかしイギリスは清に売れる物は何もなかった
一方 清の安いお茶はイギリスで大きな需要があった そのためイギリスは清に対して大きな貿易赤字を抱えていた
そこでイギリスは東インド会社を通じて広東省の港(清朝において唯一貿易を許されていた港)でインド産のアヘンを売って金儲けをした
イギリスは支払いもアヘンで行っていた 清はアヘンを取り締まったため それに怒ったイギリスとの間でアヘン戦争が勃発する
1842年 戦争に負けた清は 南京条約により 当時まだ未開発だった香港の領土をイギリスに奪われた 最初は香港島のみ統治だった
それまで田舎町だった上海も香港同様 アヘン戦争後 海外からの投資で発展し 初めて世に知られるようになった
当時イギリスが支配していた香港やマレーシアなどの役人にイギリス領インドからイギリス人の言う事を聞くインド人を送った
イギリスの ほかの植民地をインド人を使い間接的に統治することでイギリス政府に直接 不満が来るのを防いだ
そのため香港やマレーシアには今でもイギリスから送りこまれた多くのインド人の子孫が暮らしている。
19世紀半ばある財閥が船の入港を祝うために空砲を打っていた
しかし そのことが海軍の気に障り罰として毎日 正午 時間を知らせるために空砲を打つことを命じられた。
香港のヌーン デイ ガイ では 今でも 毎日12時に大砲から空砲が放たれている
1849年 中国人の香港への移住が始まる
1853年 ペリーの戦艦は東京の後 沖縄や台湾 香港へと立ち寄った ペリーは台湾で炭鉱などの資源調査を行った
1858年 アロー戦争(第2次アヘン戦争)でイギリス フランスの連合軍は清(中国)の勝利する
1860年 イギリスは清(中国)と北京条約を結ばさせ
香港島の対岸にある 九龍半島を割譲した
1862年 清朝(中国)は それまで認めてこなかったポルトガルのマカオ支配を初めて認めた。 その後 ポルトガルは清朝(中国)に不平等条約を結ばされる
1865年 香港の中央銀行となる香港上海銀行が設立される
1872年 香港上海銀行が初めての通貨となる銀貨を発行する
1888年 香港の夜景の名所 ビクトリアピークに高さ373メートルの頂上まで7分で到達するリフト式トラムが完成
以前は山道を3時間かけて登っていた
ビクトリアピークはイギリス統治時代 上流階級の 避暑地だった
1897年 フィリピンの革命家 アギナルドは当時スペインの支配下にあったフィリピンで革命政府を樹立し初代大統領となる
アギナルドはスペインとの戦闘で山奥にまで追い込まれた挙句 ひるがえる 自らの信念フィリピンの独立をあきらめ さらに敵国スペインから補償金をもらい香港へ逃亡してしまう その後 香港で自転車屋を始める
翌年 アギナルドはフィリピンに帰国する
1898年 イギリスは香港島と九龍半島以外に郊外の広い範囲 新界地区(多くが山岳地帯)の領土も99年間借り入れるという方法で取得した。
しばらくの間 イギリス領 香港と中国との間に国境は設けられず中国人の行き来は自由であった。
しかし現在 香港は中国に返還されたが今でも国境のようなゲートが設けられ出入国のような手続きを踏まないと行き来は出来ない。外国人はパスポートが必要
1906年 カジノ王 盧九(1883~)
カジノ王 カ ジノで大もうけしたがのちに政府と対立し莫大な借金を抱える
その後 カジノ王は 自分の屋敷の中で自殺する
1935年 香港ドルが発行された
1941年 年末 日本は香港を占領する
戦時中 日本は3年8か月 香港を統治した
香港に入った日本軍は香港ドルを廃止し軍票を大量に発行しインフレを起こした。
日本統治下の香港では 今まで行われてきた東南アジアやオーストラリア(主にイギリスの植民地)との貿易が止まった
イギリス系企業の営業も停止され香港経済は困窮した そのため多くの中国人が大陸へと引き換えした。
イギリス統治時代160万人いた香港の人口が半分以下の60万人まで激減した。
一方 第2次大戦中のマカオはポルトガルが中立の立場を取っていたため戦場になることはなかったが 日中戦争と中国内戦で戦火を逃れてきた多くの難民がマカオに逃れた
1945年 第2次大戦が終わり 日本は香港から撤退した
戦後 香港は独立することなく再びイギリスの統治下におかれる
なお日本統治下で発行された軍票(紙幣)は紙切れ同然となった
ポルトガルが統治するマカオには中国共産党と台湾国民党(中華民国)の それぞれの国の工作員(情報機関=スパイ)の拠点が置かれた
1949年 中国大陸で行われていた国共内戦は共産党が勝利し中華人民共和国が建国された。
すると 共産党を嫌った 多くの中国人が難民となって香港に逃れた。
さらに中華人民共和国建国以降も 毛沢東主導で行った大躍進政策(農業改革)や文化大革命(内乱)の失敗により多くの中国人が香港に逃れた。それらの人々を逃港者と呼ぶ
1966年 中国大陸で行われていた文化大革命(内乱)で殺害された遺体が当時イギリス領であった香港へ次々と流れ着いた
(同年)マカオで一二・三事件が発生する
事件はマカオ在住の中国共産党支持者とマカオを統治するポルトガル人との間で起きた衝突が事の発端となった
それが暴動へと発展しマカオに建てられていたポルトガル人の銅像が次々と破壊されて行った。
セナド広場にあったメスキータ像が破壊された。
中国の軍事介入を恐れたポルトガルが屈服する形で事態は収拾した。
以降 マカオは表向きにはポルトガル統治だが 実際は中国共産党の影響下に置かれる事となる
それに伴い マカオで活動していた台湾 国民党(工作員) ほか各機関は すべて中国共産党により撤去された。
台湾がポルトガルに抗議したため 両国の関係は悪化した。
1967年 大陸でおこった文革の影響を受けた中国共産党系住民が香港で暴動を起こす。
紅衛兵が香港国境を越え 香港の国境警備隊と銃撃戦となる事件も発生した。
1970年 ブルースリーのカンフー映画がヒットする
1971年 香港を襲った台風と台風による事故で125人が亡くなる
1972年 映画スターのブルースリー(32)が香港の自宅にて死亡する
1974年 ポルトガル本国でカーネーション革命が起こり 新政権はポルトガルの海外領土の放棄を掲げていた
1975年 ベトナム戦争終結後 崩壊した南ベトナムから多くのボートピープル(難民)が香港に押し寄せた。
1979年 中国とポルトガルが国交を結ぶ
1980年代 ジャッキーチェーンのカンフー映画が世界的にヒットする
1984年 イギリス領 香港政府は増え続ける人口を食い止めるべく新たな入国者の制限を厳しくした。
1997年 香港とマカオが150年ぶりに中国へ返還される それによりアジアから欧米の植民地が姿を消した。イギリス軍が香港から撤退したのち中国人民解放軍が香港に入ってきた。
また返還後 多くの香港人がカナダ バンクバーに移住した
ジャッキーチェーンはじめ多くの映画関係者もハリウッド(アメリカ)へ移住し 活動の拠点をアメリカに移した。
一方 香港の大手 映画会社は中国の企業に買収され 結果 中国映画の向上につながった。
当初 イギリス側は外交と軍事は中国共産党に ただ政治は香港に任せると言う 一国二制度 と言う条件で中国に香港を返還したのだが近年徐々に香港の政治も中国共産党の影響下に置かれている
(同年)アジア通貨危機が発生し香港の不動産が大暴落した。
2003年 広東省で発生した感染病サーズの大流行し香港の観光産業が大打撃を受けた。
同年 香港旅行が大陸の中国人に解禁され 香港への観光客は再び増加に転じた
2006年にはマカオのカジノがラスベガスのカジノの売り上げを抜く
2014年 反中(中国共産党) 反香港行政府デモ 雨傘運動が勃発した。
デモ隊は香港の選挙改革を求めたが 結局 成果が得られないままデモは収束した
バスに乗って香港からマカオ そして珠海(中国大陸)へと30分で行ける
2019年 香港の容疑者を中国本土へ引き渡しが可能になる逃亡犯条例改正案が成立した。
香港では その法案の撤退を求め200万人規模の反政府デモが勃発した。香港住民の4人に1人がデモに参加した。
逮捕者は千人を超え 中には路上で銃殺された人もいた。デモは その後 散発的に発生した。
2020年 香港民主化デモは引き続き行われている
が 中国共産党が香港行政府に圧力をかけ 現在 民主派が後手に回っている様子
ただ天安門事件の時のような軍の介入は今のところない
さらにコロナの影響でデモ活動も行えず 現在はこう着状態にある
(同年) 7月 中国共産党が香港に対し香港国家安全法を施行した。
香港国家安全法は主に香港で反政府運動 反中国共産党運動をしている人が対象となる。
また香港に入国した外国人にも適応される。
<もくじ>
追加情報 香港&マカオの歴史
1 香港の基本情報
2 香港の夜景(船)
3 香港の寺院や教会とモスク
4 香港の繁華街
5 香港の公園、広場と歴史的建築物
6 香港郊外の新界
7 香港郊外と島部
8 香港の料理
9 マカオの基本情報(近代建築とカジノ)
10 マカオの歴史的建築群
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