13 16世紀~20世紀 ペルシャオスマン時代を経てイギリス アメリカ支配へと続く
16世紀(1501年) イラクのあたりでサファヴィー朝(シーア派 イラン系)が誕生する
16世紀 ティムール帝国(首都サマルカンド)の滅亡後 トルコ系(又はモンゴル系)の民族の支配を脱したイラン人はイランとイラクのあたりにサファビー朝(首都イラン タブリーズ)を建国した (1587年~1629年までアッパース大帝の時が最も栄えた)
16世紀初頭に作られ 19世紀に大改築が行われた イスラムシーア派の聖地で異教徒は中へ入れない
オスマントルコ帝国がサファヴィー朝を破りイラクはオスマン帝国の一部となった その後オスマントルコのイラク支配は約200年間続く
初めてメソポタミア文明の発掘調査が行われたのは19世紀後半 ヨーロッパの人々が旧約聖書に書かれている場所を訪ねたいと思ったのがきっかけ
紀元前4000年 アブラハムはウルク(イラク)からカナン(現イスラエル)へ さらにはエジプトまで旅に出た
そのころユーフラテス川で大洪水が発生 その話はノアの箱舟が生まれる元となった
ウルクのギルガメッシュ王(ラストエンペラー)は実際に存在した王だが のちに神格化されている
ギルガメッシュの叙事詩(じょじし)の中には旧約聖書 ノアの箱舟の洪水伝説が書かれていた
ユダヤ教やキリスト教の伝説は実はシュメール神話の起源にもなっていた。
最後はノアの箱舟に乗った人類(他さまざまな生物)だけが動植物の滅亡から逃れたとされている
ノアの箱舟については アルメニアの アララト山 編 をご覧ください。
1912年から(20世紀初頭) 断続的に発掘調査が行われてきている
その時使われた 線路やトロッコがさびたまま残っている 重機の土台のみが残っている
20世紀(1917年) 第1次大戦で敗北を期したオスマントルコは多くの領土をイギリスやフランスに奪われる
サイクス・ピコ協定の結果 もともとオスマン領であったイラクとシリアの間に国境線がひかれ シリアはフランスの植民地にイラクはイギリスの植民地となる
イギリス統治下でハーシム家(アッパース系)が誕生する イラクは君主制となる
1922年 大英博物館の研究者からなる団体 トラスティーはイギリス人考古学者レナードウーリーをイラクに派遣した
1932年 10月3日 イラク ハーシム家(アッパース系)はイラク王国(クウェート領も含む)としてイギリスからの独立を果たす
1961年 イラクの中でも比較的石油がよく取れるクウェートがイラクから独立する しかし その後すぐ すぐにイラクがクウェートを併合すると宣言する
1970年代 イラク北部のクルド人問題でイランとの関係は悪化 クルド人の人口は4600万 国を持たない最大の民族と言われている
1973年 中東戦争が勃発 その時イラクは2度にわたりクウェートに侵攻した この時は両国の外務省同士の話し合いで解決した。
1979年 サダムフセイン バース党が誕生する 同じ年隣国イランでイスラム革命が起こる
かつてイランとイラクの間の砂漠の国境には 一つの壁にイラク側はフセイン イラン側にはホメイニ氏 の巨大な絵が描かれていた
1980年から1988年(8年間)に起こったイランイラク戦争 イラクは その戦争で手一杯となり クウェート侵攻は2の次となった
またクウェートもイランのイスラム原理主義が拡大するのを恐れイランイラク戦争ではイラク側を支持していた。
そればかりか のちにイラクと何度も戦争を行うアメリカも この時はイラクを支援していた。
最初はイランがイラクに攻めて来る しかし その3年後 今度はイラクがイランに攻める
(イランイラク戦争 戦没者慰霊碑) 高さ45メートル 丸い玉が二つに割れたような形をしている
イランイラク戦争が終わるとイラクは再びクウェートに侵攻する イラクはアラブ連盟の事務総長にクウェートをイラクの19番目の州にすると宣言する
またイラクは再びイラク北部のクルド人の弾圧に乗り出した。その時 エジプトのムバラク大統領が仲介に入るも失敗する
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