4トプカプ1(豪華な宮殿の内部)
小高い丘の上に建つ宮殿
オスマン帝国がイスタンブールを陥落させた25年後の1478年 征服王 メフメト2世の建築により完成
その後 数100年にわたり改築工事が行われる
トプカプ宮殿はオスマン帝国 400年間使用され続けてきた。
18世紀 帝国が衰退してもなおトプカプ宮殿の増改築の工事だけは続けられた。
オスマン帝国時代の建造物 オスマン時代は一般人の立ち入りを禁止していた
ただ宮廷内の帝王の門は身分を問わずだれでも入れた。
挨拶の門は宮殿の心臓部となっている。スルタン以外の人が中へ入るときは馬から降りなければならない決まりになっている。
オスマン統治時代 貴族階級はなく庶民の上にはスルタンしかいなかった。
八家計の2本の塔からなる門
様々な文化を取り入れた宮殿だが建物の配置は不規則でほかの宮殿とは違う
130×180メートルの中庭があり国家の重要な儀式である出陣式やスルタンの即位式等はすべてそこで行われていた。緑豊かな中庭となっている
宮殿内には軍人や貴族の病院や学校 モスクが入っており一つの町のような造りとなっていた。
多い時には6000人が宮殿内で暮らしていた。また宮殿は政治の中心地でもあった。
壁にびっしり書かれたアラビア文字の中にはアッラーのお許しでこの宮殿が建てられたと書かれている。
アラブ文字だけスルタン(イスラム王)の顔で表したトゥグラ(絵文字)などが描かれている。
スルタンが女性たちを遊んだ広場
選ばれた女性のみが入ることができた。
あらゆるところから日差しが差し込み非常に明るい
壁のタイルには様々な花柄模様が描かれている
スルタンの館で多い時には1000人の女性が集められた 女性たちは すべてスルタンの所有物をして扱われた。
スルタンの食卓には常に30種類の料理が置かれていた。
スルタンはその中から気に入ったものだけを食べていた。
食事中 ハーレムの女性がベリーダンスを踊りスルタンを喜ばせていた。
スルタンが浮気相手の女性を呼んで楽しんだ
スルタンの母親はバリーデスルタンと言われ一時 オスマン帝国内で一番の権力者であった。
数多いスルタン(イスラム王)の子供は英才教育で競わせ 最も優秀な子が次のスルタンとなった。それまではスルタンの母親に多くの特権が与えられていた。
とりわけトプカプ宮殿内のスルタンの母親の部屋とバスルームは豪華
大理石の下にパイプが引かれ熱いお湯が流れていた。
なおハレム内の風呂はスルタンとスルタンの母親の実が使うことを許されていた。
主にオスマン帝国の国家を担う国会が行われた場所
庭に就く出した大きな日差しは客人を雨や強い日差しから守るため
柱はヨーロッパやギリシャから持ち出した大理石で出来ている
第18代 スルタン イブラヒム(精神異常患者)の母親 キョセムの隠し部屋がある
イブラヒムの母親 キョセムは会議で話されていた内容を盗み聞きしていた。
ムハンマドが天空に旅立つときに残された足跡などムハンマドの遺品が納められている
祭壇にはムハンマドが残した髭がまつられている
スルタン(イスラム王)もここで1日5回の祈りをささげていた。
オスマン帝国がバグダッド(イラク)を倒した記念に建てられた
中に庭の厨房の煙突が ずらりと並ぶ 厨房の広さは500坪
厨房内には大きな樽の様な鍋がならべられている
鍋は長年使われていなかったため さび付いている
かつては宮殿内には食用の羊300頭が飼われていた。
1000人の料理人がここで働いており
5000~6000人(又は1万人)の食事をまかなっていた
アフメト3世 建造
壁には食べ物の絵が描かれている
スルタンは基本1人で食事をしていた。スルタンは宴会や宴には出席しなかった。
トプカプ宮殿を建てたメフメド2世がそう決めた。
宴会の様子を描いた絵も残っている。
16世紀に行われた宴会では一般市民の参加も許された。
オスマン宮廷料理が提供される ただ酒類はない
<目次>
1イスタンブールの基本&レストラン情報
2アヤソフィア
3ブルーモスク
4トプカプ1(豪華な宮殿の内部)
5トプカプ2(宝物殿とハーレム)
6ドルマバフチェ宮殿とヴァレンス水道橋
7ガラタ地区(金閣湾)
8ボスポラス海峡とテオドシウス大城壁
9イスタンブールの博物館&モスク
10市場(トルコ絨毯)
11イスタンブール郊外
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