紀元前2世紀~紀元6世紀
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紀元前2世紀~5世紀 邪馬台国の時代 |
紀元前2世紀 大陸(中国)の人が日本に住む人たちを倭人と呼び その集まりを倭国と呼んでいた 倭国(主に大和王朝)は中国大陸の漢王朝に対し貢物を送っていた 倭国(日本)は漢(中国)の属国だった
この頃の歴史の記録は すべて中国大陸の人によって書かれたもので その内容は すべて中国目線となっている ※日本人が書いた記録は残っていない※
中国に残る魏志倭人伝(歴史書)より
1世紀中頃の後漢製(中国)の金の印鑑が弥生時代の遺跡から見つかっている
1世紀~3世紀 北九州のあたりで奴国(なこく)が中国大陸の漢の帝(みかど)に貢物を贈る※漢は三国志の一つ前の時代の王朝
その後100年ほど平和が続き やがてまた戦闘が続く
2世紀~3世紀の弥生時代に邪馬台国と言う国が結成される
※邪馬台国の都は いまだ不明 物的証拠がないため架空の王朝の可能性もあり※
2世紀後半 倭国大乱言う内戦状態へ突入する
中国で七夕を祝う習慣が始まる※七夕は のちの時代中国では衰退する
3世紀 邪馬台国は魏王朝(中国)に貢物をし 魏の属国となっていた
242年~248年(3世紀) 日本では邪馬台国のトップに卑弥呼(占い師 又は預言者の女王)がにつく
卑弥呼は平和主義者で とりわけ情報取集能力に優れていた。この頃 卑弥呼の宮殿が建てられる
一方 中国大陸では三国時代のなか 魏(ぎ)の勢力が力をつけ 朝鮮半島まで進出する
邪馬台国(日本列島)は魏(ぎ=中国大陸)と友好関係を築くため使者を送り貢物を手渡した
やがてまた邪馬台国は周辺部族との戦が始まる そこで邪馬台国は魏(ぎ)から張政を招く
卑弥呼が亡くなり 邪馬台国は再び内戦状態に突入する
その内戦が収まったころ張政は中国大陸へと帰っていく
その後 まもなく中国大陸では魏(ぎ)が滅び 新たに晋(しん)が誕生する
卑弥呼の後 イヨが邪馬台国の女王となるが それ以降 約200年間の記録は残っていない
3世紀から5世紀(200年間) 邪馬台国 卑弥呼以降 空白の時代が続く
3世紀 北海道 北部でオホーツク人がオホーツク文化を開く |
3世紀 ロシア樺太や千島列島と北海道北部でオホーツク文化が起こる
北海道にオホーツク文化を起こしたオホーツク人の起源はロシア シベリアの少数民族 ニヴフ人やコリヤーク人だとされている
この地方は稲作には不向きで あった為 オホーツク人は漁と海洋動物を取って食べていた。また捕鯨も行っていた。犬や豚を家畜として飼っていた。
またヒグマなどの狩りを行い革製品の生産も行っていた。
住居の前に動物の骨を飾る習慣があった。動物の骨を削り芸術作品を作っていた。
ただ製鉄技術を持っていなかった
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350年~700年 大和朝廷(古墳時代) |
350年~700年 古墳時代 奈良県を首都とした大和王権が古墳をいくつか作る 古墳造りは やがて日本全国にまで広がる
大和朝廷(又はヤマトの国 大和王権)が多くの国を一つにまとめる (年代は不明)
人々(農民)は古墳(大和朝廷の大王(おおきみ)の墓)造りに連れ出される
古墳づくりは設計図を基にした測量が行われた 完成までは一日1000人以上働き4~5年かかった
391年~404年 倭国(日本)と高句麗(朝鮮半島北部から中国東北地方にかけての国家)との間で倭高句麗戦争が起こる
倭国(日本)が朝鮮へ攻め込む新羅と百済(朝鮮半島南部)を攻略するも高句麗(朝鮮半島北部と中国東北)の返り討ちに会い 倭国(日本)が大敗を期す
5世紀前期~中期 今の大阪に全長100メートル以上の仁徳凌が造られる
一方 朝鮮半島では高句麗 百済 新羅 任那の4つの国に分かれて勢力争いをしていた
大和朝廷の支配下にあった九州 筑紫国(つくしのくに)に朝鮮半島から新羅の使者が訪れる 筑紫国は新羅と組み反乱をたくらむ
倭国(日本)の大和朝廷軍が朝鮮半島(韓国 北朝鮮)へと責めるが新羅の軍に打ち砕かれ敗北する
6世紀 続縄文時代が続いていた北海道ではオホーツク文化から擦文文化へと移行していった
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