18世紀末~19世紀初頭
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18世紀末 オランダからの人体解剖書 ターヘルアナトリアが日本の医学を変えた! |
1770年 当初 オランダ人(その前はポルトガル人)を隔離する為に作られた出島(長崎)も18世紀末になると一般人の出入りが自由となり
オランダ人との接触が増えたことでオランダ語を学ぶ日本人も増えた さらにオランダの貿易船によってヨーロッパの学問や文化が多く伝わった
医者の前野良沢はオランダ人から詳細な人体解剖の本ターヘルアナトリアを譲り受けた
一方 江戸にいた杉田玄白も前野と同じターヘルアナトリア(人体解剖の本)を持っていた
辞書もない時代 前野と杉田ほか医者たちが集まり オランダ語で書かれたターヘルアナトリア(人体解剖の本)の翻訳作業を行った
1774年 ターヘルアナトリアをもとに作った解体新書(日本語版)が ついに完成した それにより日本の医学は飛躍的に進歩した
その後 前野と杉田によって開かれた蘭学(オランダ医学)は2人の弟子である大槻玄沢に受け継がれた
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18世紀末 米(こめ)価格の下落と物価の上昇! |
1787年 徳川11代将軍に徳川家斉がついた そして松平定信が将軍の補佐役に着く
松平は主に幕府の経済を担当した 当時 人々は物価の上昇に苦労していた そこで人々は松平の経済政策に大いに期待していた。
当時 天候不順による不作と幕府の支出がかさんで幕府の赤字は100万石(今の価値で約370億円)に迫ろうとしていた。
そこで松平は まず幕府の支出を減らし(※国民の贅沢も禁止)
次に江戸に流れ込んでいる農民を田舎に返し農作業に励んでもらい年貢をしっかりと納めてもらうことにした。
また農民が田舎へ帰る交通費や農業に必要な農機具は幕府が負担した。
米を増産したことにより米の値段はずっと下がったが他の物の物価は今まで通り上昇し続けた
その後も松平が行った多くの政策は失敗 続きだったため 松平は職を解かれる事となった
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18世紀末 ロシアの脅威と北海道の開拓! |
1789年 アイヌ人が支配者の和人に対して起こした蜂起 クナシリ・メナシの戦いが起こる 結果 アイヌの3連敗
1792年 ロシアの使節ラックスマンが乗った船が根室を通り北海道の一番東から北海道の一番西の松前(函館)に貿易を求めて やって来た
当時 まだ鎖国を行っていた江戸幕府はそのロシア船を追い返した。
1798年 ロシアの脅威に感じた江戸幕府は当時まだ未開の地だった北海道の守りを固めた
そこで幕府は日本人を北海道の択捉島(えとろふとう=北方領土)に送った
さらに幕府は間宮林蔵を樺太(サハリン現ロシア領)へ送り調査を行った
その結果 樺太(からふと)は細長い島であることが分かりシベリアとの海峡は間宮海峡と名付けられた
1800年 浅草(江戸=東京)の天文台から北海道の函館へ測量技師を派遣した
その後 北海道の原住民アイヌ人の協力を得て測量の旅を行い北海道の正確に地図が出来上がった
1805年 13年前 北海道で追い返されたロシア船が再び貿易の許可を求めて長崎へやって来た
ロシアの貿易船は半年も待たされた挙句 またしても追い返されることとなった
1807年 怒り心頭となったロシア船は択捉島(えとろふとう=北方領土)に大砲を放って帰っていった。
江戸幕府は直ちに会津(福島)と仙台(宮城)の兵 数千人を蝦夷地(北海道)に向け派遣した。
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19世紀初頭 ドイツ人 医師シーボルトの来日! |
1823年 長崎の出島では医師としてオランダ商館のシーボルトが来日してきた
シーボルトの評判は良く 長崎奉行所(役所)もシーボルトのために鳴滝塾と言う研究所を用意した
鳴滝塾では多くの日本人医師が集まり多くの事を学んだ
1826年 シーボルトはオランダ商館長に連れられ江戸(東京)にやって来た
江戸でシーボルトは たくさんの日本人学者と知り合いになった
しかしシーボルトは江戸幕府に にらまれ 無実の罪を着せられ 日本追放となってしまう
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19世紀初頭 大塩平八郎の乱 天変地異と暴動の嵐! |
1830年ごろから 日本では天変地異が怒り始める
1833年には東北地方を中心に異常気象と飢饉(きが)が発生し 不作が原因で農民一揆や打ち壊し(暴動)が各地で発生した
大坂(大阪)でも飢え死にする人が多発した その時 救世主となったのは大塩平八郎(学者)と その息子 大塩角之助だった
2人は飢えて苦しむ農民を救うため様々な手を打った しかし その邪魔に入ったのが奉行所の人(役人)たちだった
役人は人々が植えて苦しんでいるというときに幕府の機嫌を取るため米を横流ししていた
そこで大塩たちは庶民を救うため奉行所の襲撃を計った
1837年 ついに大塩親子たちの計画は実行された これら一連の出来事を大塩平八郎の乱と言う
大塩親子が起こして暴動は やがて大阪の5分の1が灰となるほどまで拡大する
しかし大塩親子たちは武装した町奉行(役人)に打ち砕かれ 大塩親子は自害する
これをきっかけに全国に農民一揆や打ちこわしが多発し手が付けられない状態となった
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