5古都クラクフ
チェコの国境から約100キロの所にある町
ワルシャワから約300キロ 最も東に位置するカトリック聖地
ビスガ川 両岸に開けた町 街には馬車が動力となった鉄道のレール跡が残っている
その昔 クラクフには城壁とお濠があった
11世紀 クラクフがポーランド王国の首都となった
14世紀 ポーランド リトアニア王国が建国された際も首都はクラクフに置かれた
1596年(又は1611年) 首都がワルシャワに移るまで600年間 ポーランド王国の首都として栄えた
商売と教会の製造に力を入れ発展してきた
首都がワルシャワに移されてからも国王の戴冠式はクラクフで行われてきた
またクラクフは学問の町としても名をはせた
あ
1772年 ポーランドが帝政ロシア(ロマノフ朝) プロイセン(ドイツ) オーストリアの3か国に分割統治された際
クラクフはハプスブルク オーストリアが統治した
1939年 第2次大戦時にはクラクフにはナチスドイツの司令部が置かれた
連合軍の標的になりながらも歴史的に価値の高い建物が多すぎたため連合軍は空爆を断念した。
そのため奇跡的に美しい町並みが残った
ナチスドイツがポーランドに侵攻した際ダヴィンチ作品ほか さまざまな絵画がポーランドから持ち出された
戦後 多くの作品が返却されたが しかしラファエルの肖像画だけは戻ってこなかった
クラクフの美術館には今も額縁のみが展示されている
1978年 町全体が世界遺産に登録された
14世紀 大王が城壁の外に造った街 シンドラーのリスト(スピルバーグ作)の舞台にもなった
上映後 アメリカやイスラエルから多くの人が訪れるようになった
第二次世界大戦以前 ユダヤ人街として栄えた
丘の上に立つ城 月に一度だけ門が開く 普段は女人禁制
一般社会から隔離された修道院内の生活は厳しい
239段 80メートル 狭い階段で一番上まで登れる
中央市場からの見物客が多い
13世紀(1222年)に建てられた教会
800年の歴史のある教会で かつてヨハネ2世(ポーランド人初のローマ教皇)がこの教会の大司教を務めたこともある
13世紀 蒙古襲来時 ポーランドにモンゴル(タタール人)が襲ってきた
そのときタタール人が放った矢が教会の上のラッパ吹き(職業=消防士)に命中し命を落とした。
そのとき以来700年間 追悼のラッパが今でも1時間おきに教会の塔の上から4方向に向かって鳴らされている
演奏は兵士が息絶えたところ(途中)でピタリと止まる
ラッパ吹きはハイナリストと言う職業で8時から8時までの交代制
24時間夜中でもラッパが吹かれている
1498年 建築 現在ヨーロッパに3か所のみ残る
14世紀に建てられたもんは19世紀に取り壊された 今はこの門だけが残る
1820年に市庁舎が取り壊され塔だけが残った
ヴィト ストフォシュ祭壇
幅11メートル 高さ13メートル ヨーロッパ最大の祭壇
広場の中央にある 18世紀にルネッサンス様式で建てられた
館内は繊維関連の織物がずらりと並ぶ 中には長さ100メートルの物もある
近く(又は管内)のカフェは常連客の中にレーニン(ロシア)がいた
ポーランド王国 歴代41人の王が この教会で眠っている
地下には歴代国王の棺が並べられている かつて この王宮には口から火を噴く龍の像が置かれていた
生涯1度も ここを巡礼をしない物は本物のポーランド人ではないと言われている
15世紀末に火災で大半を焼失したが その直後から30年くらいかけ修復された
ヴェリチカの岩塩の利益でクラクフに建てられたヴァヴェル城の豪華な祭壇が造られた
ジグムンド塔のてっぺんにはジグムンド1世の命で鐘がつるされている
鐘はポーランド最大で特別な行事の時だけ鳴らされる
18世紀より およそ200年間 ドイツに支配された
第2次大戦では大きなな被害を受けた
ヨーロッパでもっとも広い広場 クラクフのすべての道が この広場に通じている
旧市庁舎以外の建物は取り壊された
劇は反体制派の内容が多く たびたび物議をかわす
クラクフで一番高い丘 軍事施設でありながらラジオの放送局も置かれている
ダヴィンチ作品を展示
クラクフ郊外 ヨハネパウロ2世の像が建つ教会
<目次>
1ポーランドの歴史
2基本情報&料理
3ワルシャワ1(廃墟からの復興~中世の町をそのまま再現)
4ワルシャワ2(ショパンに関する名所ほか)
5古都クラクフ
6ヴェリチカ岩塩坑
7アウシュビッツ強制収容所(ナチスの地下基地)
8トルン(コペルニクスの故郷)と西部と北西部の名所
9北部グダンスクとエルブロング(黒いマリアほか))
10ヴァロツワフ(ヤヴォルの平和教会 ヨーロッパバイソンほか)
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