(東京タワー7)タワー建設までの経緯!
テスト
昭和28年 白黒テレビの放送では相撲出身の力道山がプロレスの試合で空手チョップを何度もさく裂させる痛快な映像が流れていました。
当時その〃テレビ放送開始〃と言う新しい娯楽の誕生に人々は熱狂しました。しかしそのころ東京では高さ153~177メートルの電波塔が次々と建てられていました。
それらの塔の群れは新たに開局したテレビ局が独自に建てた電波塔でした。東京タワーが出来る以前の東京は放送局の数だけテレビ塔が建っていたそうです。
当時 東京はテレビ塔の建設ダッシュが起こってました。
しかし高さ百数十メートルのその塔では電波を送信できる範囲が限られ100キロ離れた銚子(ちょうし)や水戸では満足に電波を受信する事が出来ませんでした。
さらに視聴者はチャンネルを変えるたびにそれぞれのテレビ局が建てた電波塔の方向にアンテナの角度を変えなければなりませんでした。
しかも鉄塔の乱立は都市景観においても好ましくないだけではなくこのままでは東京は鉄塔林(てっとうばやし)で出来た鉄塔都市になるところでした。
そこで日本電波塔株式会社と言う会社が設立され各放送局の電波塔を一本にまとめる巨大な鉄塔が建設される事になりました。それが日本電波塔こと東京タワーでした。
そして東京タワーの設計を行ったのが戦艦大和や名古屋テレビ塔さらには大阪の通天閣まで手掛けた内藤さんでした。
内藤さんはそのほかにも数十本の電波塔を手掛けていて日本の塔設計の第一人者であり塔博士とも呼ばれていました。
ーーーーーこのあと工事が開始されますが開始早々いきなり難関が訪れます。つづきをどうぞ
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