テスト
1258年第一次元越戦争(ベトナム対モンゴル)ベトナムの勝利
1259年4代目皇帝モンケは手柄を上げるため自ら戦場に向かうが伝染病にかかり亡くなる
1260年モンゴル軍はキリスト諸国連合軍を引き連れ シリア パレスチナで エジプトを拠点に置くマムルーク朝と戦う(アイン・ジャールートの戦い)が マムルークに敗北する
同年(1260年) 多くの人の支持を得たクビライカーンが第5代 モンゴル皇帝に選ばれる 同じくクビライの弟 アリクブケも5代目に就任する モンゴル帝国は分裂しモンゴル帝国帝位継承戦争(内戦)に発展する 戦乱は4年間続いた。
以後 モンゴル帝国は①元朝②キプチャク国③イルハン朝④チャガタイハンの4か国に分裂する事となる
1264年5代目皇帝のアリクブケ(弟)が同じく5代目皇帝クビライに降伏する
同年(1264年) 元(モンゴル)による樺太遠征が行われる アイヌ人がモンゴル帝国と戦った
1267年 モンゴル帝国 クビライは26年かけて大都(現 北京)の町を作り上げる
北京の北海公園を起点に町作りが行われた。
北京の伝統民家 四合院(フートン)や 北京の故宮も そのころ建てられた
そのころイタリア人のマルコポーロも大都を訪れ元の皇帝 クビライと面会している
またマルコポーロが書いた東方見聞録はのちの時代に活躍するコロンブスが愛読していた。
13世紀末 中国の京劇(演劇)は元(モンゴル帝国)の時代から始まったと言われている
北京の街を築いたモンゴル帝国はチベット仏教他様々な宗教を取り入れていたが 中でもイスラム教徒は帝国の財政を支えていた
1268年
九州(日本)の太宰府にモンゴル帝国の使者がやって来る が 鎌倉幕府はモンゴルからの使者を追い返した。
1271年 クビライはモンゴル帝国の中国占領地の呼び方を中国風の元と国名変更をした
1271年以降 刀削面(山西省) 元のころモンゴル軍に包丁を奪われたコックが鉄板を使って作った麺料理のが刀削麺の始まり また山西省は麺のふるさとと言われ300種類以上の麺料理がある
1274年
モンゴル 南宋戦争 崖山の戦い が始まる 戦いは5年間続く
南宋は福建省の泉州を拠点にアジアの海を制圧していた 主にインド産の胡椒 香木 乳香などを扱っていた
泉州古船陳列館には13世紀 南宋が築いた木造大型船のが展示されている
同年(1274年) 蒙古襲来(1回目) 鎌倉幕府軍VS最強の外敵!モンゴル軍!!(日本 福岡)
蒙古(元)と高麗(朝鮮)の連合軍 2万6千人と900層の船が対馬 博多(日本)に攻めてきた
圧倒的な軍事力を見せつけられ モンゴル軍の圧勝かと思われたが しかし台風が海上を襲い
モンゴル軍と朝鮮軍は退散 そのときモンゴル軍兵士 約3000人あまりが海中に沈み 亡くなった
鎌倉幕府は2回目の蒙古襲来に備え福岡県に元寇防塁と言う防護壁が築かれた 元寇防塁は今も残っている
福岡県には蒙古襲来の時に備えて築かれた防波堤が今でも残っている。
1275年
再びモンゴル帝国(元)からの使者が来る 鎌倉幕府は 使者たちの話を聞くまでもなく ただちに御家人(武士)を呼び出しモンゴルからの使者を皆殺しにした
1277年 元(モンゴル)はパガン朝(ビルマ=ミャンマー)への攻撃を始める 初戦の戦いはモンゴルが勝利した 戦いは その後 10年も続く
1279年 モンゴル軍(元)は新兵器 投石機を使い南宋の都 杭州を攻め ついにモンゴル軍の手に落ち 南宋は滅亡する
最強を誇ったモンゴル帝国は陸だけでなく海の道も手に入れた
泉州に回族(イスラム教徒)が多いのはこの時の影響
元の時代 宋(中国)の焼き物にペルシャ(中東)の青い原料などを使った景徳鎮(江西省)が完成する 景徳鎮の焼き物は遠くヨーロッパにまで運ばれた
1281年元(モンゴル軍) 高麗(朝鮮)連合軍 14万の兵が日本の対馬と博多湾に攻めてきた。2回目の蒙古襲来!
しかし またしても台風が北九州を襲った そのときの蒙古軍の死者は10万とも言われている
台風のおかげで鎌倉幕府は命拾いしたと思いがちだが 実際は蒙古(モンゴル)軍は多民族からなる軍隊で内部で争いが絶えなかった
また元(モンゴル)との戦いで戦費を使いすぎた鎌倉幕府は財政が圧迫 武士を はじめ多くの人の生活が苦しくなった
武士たちは牛や馬を出し命まで懸けて戦ったのに報酬がないと幕府に不満を訴えた
この戦いが鎌倉幕府の崩壊を速めたとも言われている。
1282年
元(モンゴル)は海からチャンパ王国(ベトナム中部)に攻撃を仕掛けるが失敗する
続いて元は大越(ベトナム北部)の領土を通過しチャンパ(ベトナム中部)に攻撃を仕掛けた しかし大越軍の攻撃に会いまたしても失敗に終わる
1283年第二次元越戦争(ベトナム対モンゴル)ベトナムの勝利 これで元(モンゴル)はベトナムに連敗を期す
同年(1283年) ミャンマー北部のバモーで元(モンゴル)とパガン朝(ビルマ 現ミャンマー)の2度目の衝突が起こる 又してもモンゴルが勝利する
1283年 アンコール王朝(タイ ラオス カンボジア)はモンゴル帝国の侵略をうけるが その後 元(モンゴル)の属国になることで存続を保った
1285年 樺太で元(モンゴル)の2度目のアイヌ攻撃が3年続けて行われた。アイヌ人は樺太から追い出された。
1287年第三次元越戦争(ベトナム対モンゴル)ベトナム3連勝 一方 元(モンゴル)は3連敗を期す
1288年 元(モンゴル)は白藤江の戦いで陳朝ベトナムを攻めるが失敗する モンゴルはベトナムに4連敗を期す
1292年 モンゴル軍がパキスタン ペシャワール侵攻に失敗する 4000人のモンゴル兵が捕虜となりイスラム教徒に改宗させられた。
またモンゴル軍は北インドにも2度ほど大軍を引き連れ進行しているが占領するまでには至らなかった。
同年(1292年) 元(モンゴル)はインドネシア ジャワ島へ進行するが失敗に終わる
1294年 モンゴル帝国のクビライカーンが80歳で亡くなる 同年 元の皇帝にクビライの孫 テムルが6代目に就任した
1297年
元(モンゴル)の皇帝がアンコールワットを訪れる
1298年 元(モンゴル)パガン朝との3度目の戦いパガンの戦いが起こる パガン朝はモンゴルに占領され滅亡し270年の歴史に幕を下ろした。
元はビルマを占領するも現地シャム族(タイ族)の抵抗にあいモンゴルのビルマの統治はうまくいかなかった
1300年 インド デリーはモンゴル侵攻の結果 多くの難民が押し寄せていた そんな中 モンゴルが久々にデリー(インド)に攻撃を加えた。
1301年 モンゴルのインド攻撃は またしても失敗し多くのモンゴル兵が捕虜となり殺害された。
(同年)1301年 元(モンゴル)が再びビルマ(ミャンマー)に攻撃を仕掛けるが 今度はシャン族(タイ族)によって撃退される
同年 モンケの死後 40年に渡って行われてきた内部抗争は終結した。
1307年 モンゴルでは6代目テルムが亡くなると再び後継者争いが始まる
1331年 元(中国大陸)でペストが猛威を振るい死者が急増し人口は半分に激減する
1348年 中国のネズミが発生源のペスト菌はヨーロッパにまで拡散する 以後70年間 猛威をふるい続けた
モンゴル帝国の総大将を勤めていた大カーンことフビライのトルコ語とモンゴル語で書かれた遺言がイスタンブール(トルコ)に残っている
遺言には〃力による支配はしてはならない 最も大事なことは心をつかむこと〃と書かれていた
しかしフビライの後継者は その遺言を無視 民族同士の権力闘争に明け暮れることとなる
やがて 帝国の基盤は緩んでいく そこへやって来たのはヨーロッパで猛威を振るった病原菌ペストだった
モンゴル帝国が築いた交通の発展が あだとなりペストは瞬く間に広範囲に広がった
ペストの大流行は全世界の人口の約3割を死亡させ およそ8,500万人が亡くなった
そして14世紀後半 モンゴル帝国は ついに滅亡することとなる
1351年
白蓮教徒(宗教団体の一つ)が起こした元王朝に対する反乱 紅巾の乱が発生する
1368年
紅巾の乱の指導者から現れた朱元璋(しゅげんそう=安徽省出身)が
中国大陸に明を建国する
一方 元は明に大部分の領土を奪われたが中国東北部からモンゴル高原に逃れ北元として その後 数百年間存続する
1387年 元が中国大陸から撤退したのちモンゴル人がいなくなった樺太では再びアイヌ人が戻って来た。
<目次>
1 国家創設~帝国誕生(紀元前~13世紀初期)
2 モンゴル帝国①ヨーロッパ中東 遠征(13~14世紀)
3 モンゴル帝国②アジア遠征(14世紀)
4 清朝 ソ連支配~独立(15世紀~現在)
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