4 清朝 ソ連支配~独立(15世紀~現在)
明の8代皇帝は自ら戦場に出向き捕虜となる前代未聞の事件が発生する
この戦いはオイラト(モンゴル)の勝利 明は占領こそされなかった物の以後100年間 遊牧民に たびたび攻撃をうける事となる
明朝は陸からはモンゴル遊牧民 海からは倭寇(日本の海賊)に攻めれれる事となる
そんなアルタン ハーンはモンゴル全土にチベット仏教を普及させた
その後 アルタン ハーンの孫はチベット王国のダライ・ラマ4世となる
お寺は世界遺産 オルホン渓谷の一部となっている
後金(満州族)と北元(モンゴル)との7年間に及ぶ戦争が始まる
後金(満州族)との7年間の戦争に敗北した北元(モンゴル)は滅亡する
中国チベット地方に ゲルク派からなるダライダマを頂点にするチベット ダライ・ラマ政権が成立する
ダライラマとはモンゴル語で 大きな海のような指導者 と言う意味
モンゴル人のアルタンハーンが命名した。
さらにオイラトはチベットに4代80年続くグシハン王朝を立ち上げる
グシハン朝はダライ・ラマ政権の向上に役立った。
現在 ダライ・ラマ政権はインドで亡命政権として活動中
清はモンゴルとチベットを属国(保護下)に置いた
清は ロシア ウラジオストク ハバロフスクとモンゴル全土 キルギス共和国 カザフスタン アフガニスタン タジキスタン ミャンマー北部 インド北部 を含む東洋の半分は清国の支配下となった
清とモンゴル系オイラト人の間で清ジュンガル戦争が起こる 結果 ジュンガル帝国(今の北ウイグル)は清朝に滅ぼされる
清王朝はロシア(ロマノフ朝)の侵略を防ぐためモンゴル領内に漢民族を移住させた
しかしモンゴル民族は漢族の入居をよく思わなかった
辛亥革命により清朝が滅び それに伴い チベットは清朝支配から脱却した。
宗教色の強いチベット人によりボグド・ハーン政権が結成されモンゴルの独立を宣言した。
ただし内モンゴルは もうすでに多くの漢民族が入植していたため中華民国にとどまった
モンゴルはチベットと協力しお互いで独立国を維持しようと言う友好条約が結ばれた。
モンゴル領内に中華民国軍が侵攻するがソ連軍が撃退する
モンゴルで政権を取っていたボグド・ハーン政権=教祖(仏教)の死により モンゴルでは君主制(王政)を廃止し世界で2番目の社会主義国となった。
ソ連が作ったモンゴル社会主義共和国はソビエトの16番目の共和国と言われた
当時 モンゴル経済は97パーセント ソ連から援助されていた モンゴル人のキリル文字の使用などソ連はロシア文化をモンゴルに推し進めた
ソ連統治下のモンゴルでチンギスハーンはロシアを占領した悪者扱いされてしまった。
ソ連のスターリン政権下でチンギスハーンの子孫の処刑が行われた。
集団農場やブリヤート人の大虐殺で多くの人が亡くなった
知識人の虐殺により多くのモンゴルの歴史も失われた
また仏教弾圧も行われ800か所の修道院が壊され1万7000人の僧が処刑された。
今でも草原にノモハン事件の時に使われた戦車が残っている
紛争にはソ連も参戦し大日本帝国と満州国の惨敗となった。その後 それまであいまいだった国境線が確定した。
第2次大戦 末期 ソ連とモンゴル軍が満州国(中国東北)と内モンゴル(現在は中国領)に侵攻し勝利する
同年 ソ連 モンゴル 中国の3か国を通る 横断鉄道が開通する
ソ連崩壊後 モンゴルも民主化されウランバートルのスターリン像が撤去された チンギスハーンも再び かつての英雄に復帰した
モンゴルはモンゴル国と国名を変更 国の制度も改められた。
1 国家創設~帝国誕生(紀元前~13世紀初期)
2 モンゴル帝国①ヨーロッパ中東 遠征(13~14世紀)
3 モンゴル帝国②アジア遠征(14世紀)
4 清朝 ソ連支配~独立(15世紀~現在)
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