1基本(歴史&料理)
ルーマニアは古代ローマの影響を強く受けていて東ヨーロッパの中では唯一 ラテン系の国
公用語のルーマニア語はラテン語に近いロマンス語 ローマ帝国が公用語にしていた言語
ローマ字まま読める 発音も日本語に近い
ルーマニア出身の体操選手 コマネチが有名
イーユーに加盟しているがユーロは使用していない
物価が安い
ルーマニア人はローマ人の末裔(まつえい=祖先)と言われている
スラブ系民族が多いバチカン半島に置いて ルーマニアはかつてローマの支配下にあった
それを誇りに思った住民たちが ローマに似た町=ルーマニアと命名した。
面積は日本の本州やイギリスの国土と同じくらい 5か国と国境を接している
国の中央にパルチナ山脈が走っている
ルーマニアは国土の4割を深い森におおわれている
チャウセスク時代には農業が危機的状態にあったが今は前より農業をする人が増えた
小麦 ワイン トウモロコシなどが主な産業
1980年代 チャウセスク政権は工業に重視し農業が衰退し一次 食糧危機に陥ったこともあった
ルーマニアにはドイツ人やハンガリー人も多く暮らしている
ルーマニア正教以外にカトリックやプロテスタントの人も多い
チャウセスク独裁政権時は国営のテレビ局しかなく しかも 電力事情が悪く 1日2時間の放送で打ち切りとなっていた。
現在は民営化され30を超える放送局がある
肉料理が多い 中でもデザートの評判がいい
羊は牛より乳の出が少ない その代わり脂肪分が牛の3倍ある
作り方は羊の胃袋にお酢と羊のミルクを入れ
火のそばで15分ほど寝かせる 固まってきたらゆっくりとかき混ぜ徐々に分離させる
さらに布でこす
豚の軟骨は生で食べる習慣がある
紀元前 ルーマニア地方はダキアと呼ばれていた ルーマニアにはもともとダキア人が住んでいた
その後 ローマに占領され 地名もローマ人の町 ルーマニアと呼ばれるようになった。
ルーマニアと言う言葉はローマの国と言う意味 ローママニアも言われていた
西暦106年 ローマ帝国皇帝 トライアヌス帝はドナウ川を越えダキア人の住むルーマニア地方を支配する
ローマ人によりルーマニアの原型が作られた
271年 ローマ軍がモルドバ ルーマニア地方から撤退した後 いろいろな人が集まりルーマニア人が形成された
12世紀 トランシルバニア(現ルーマニアの一部)がハンガリーの属国として建国される
ちょうどそのころドイツ人がトランシルバニアにシビウの町を作る
ハンガリーの王はトランシルバニアに異民族を送り込んだ そのため様々な文化が発達した。 一方で異民族の対立は今でも根深い
14世紀 マラムレッシュ地方にキリスト教が伝わる その後 カトリックでも正教会でもない独特なキリスト信仰が生まれる
同じ頃 ハンガリーとルーマニアのあたりにワルキア公国と反ハンガリー派のモルドヴァ公国が誕生する
その後 ルーマニアのあたりはオスマン帝国の攻撃を受け占領されてしまう
15世紀 ルーマニアにはワルキア モルドバ トランシスバニアの3つの国があった そのうちワルキアとモルドバは もともとハンガリーの領土にあった。
その3か国は それぞれオスマンとハンガリーの属国となる
(同世紀)ワラキア王のブラド3世(別名=串刺し王)が誕生する。
ブラド3世は吸血鬼とは無縁だが小説ドラキュラのモデルとなった人物
ブラド3世は強権だったがオスマンに対抗したルーマニアの英雄となった
1408年 神聖ローマ帝国はハンガリーの領土を守るため竜の騎士団を結成する
1431年 ブラムストーカーの小説ドラキュラ伝説(別名 吸血鬼伯爵)のモデルとなった将軍が東ヨーロッパで生まれる
1476年 ドラキュラ伝説(別名 吸血鬼伯爵)のモデルとなった将軍がオスマン帝国との戦いで戦死する
16~19世紀 ルーマニアはオスマン帝国の支配下に入る
18世紀 ハプスブルクの支配下に入ったルーマニアでは300以上の城が取り壊された。
1859年 ワラキアとモルドバが合併しルーマニア公国が誕生する
1881年 3か国が併合されルーマニア王国が誕生する
1918年 トランシルバニアがルーマニアに組み込まれる事が議会で決定する
1940年 トランシルバニアの北部がハンガリーの領土となる しかし第2次大戦後 再びルーマニアに返還される
1941年 ルーマニアとドイツが同盟を結ぶ その結果 ドイツはサラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナ)の領土を手にする
しかしその数年後の1944年 ルーマニアはドイツを裏切りアメリカ ソ連 イギリスの連合国側に付く
ルーマニアはソ連の影響下に入り 表現の自由が奪われ詩を読むことが禁止された 特にルーマニアの愛国心を歌った詩は厳しく罰せられた
1945年 第2次大戦後は王政が廃止されルーマニア人民共和国となる さらにその後 ルーマニア社会主義共和国となる
1960年代 チャウセスクの近代化政策でブカレストに残っていた中世の街並みは取り壊された
1965年 ルーマニア共産党 第一書記に就任したチャウセスク(47)はほかの東欧諸国と違いソ連に反発的だった。
1968年のソ連がチェコに侵攻した際はソ連を非難し 西側諸国から称賛された。そのかいあってルーマニア経済は大成長を遂げた。
1970年代 チャウセスクは北朝鮮や中国を訪問し次第に独裁色を強めていく
1980年代 チャウセスク政権はソ連のペレストロイカを否定した。
ルーマニアは東西両陣営(ソ連アメリカとヨーロッパ)を敵に回した。
冷戦終結で それまでルーマニアはアメリカと仲が良かったが決別した。
アメリカとの決別が経済崩壊だけにとどまらず政権崩壊にもつながる事となる
1989年 革命は まず ハンガリーとの国境で始まった
欧州民主革命で唯一 ルーマニアが1000以上の犠牲者を出す流血の事態に陥る
チャウセスク政権の秘密警察が市民に発砲したのがきっかけとなり 銃撃戦が始まり1000人以上の死傷者を出した。
翌日 デモ隊の鎮圧が目的だったはずの軍がチャウセスク政権を裏切り民衆側に就いた。
10万の群衆がチャウセスクの演説を聞くために広場に集まった。
演説開始直後 突然 群衆が騒ぎ立て演説は中断
その直後 チャウセスク夫妻はヘリコプターで脱出
チャウセスク24年の独裁体制で初めての出来事だった
翌日も抗議集会が行われ多数の市民がチャウセスク打倒を叫び共産党本部へ押し寄せた
共産党本部は民衆に占拠された さらに国営のテレビ放送局も暴徒化した市民に占拠された。
一方 逃亡中のチャウセスクは逃亡から1日で捕らえられ裁判にかけられる事になった
チャウセスクは死刑を宣告され2日後に銃殺された。
革命に成功したルーマニアの新政権は3つの目標を掲げた。
①民主主義の確立
②市場経済への転換
③孤立を捨てヨーロッパの一因になる事
1990年 革命後初の選挙が行われ革命で滅んだはずの共産党が勝利しまたしてもデモや暴動が発生する事態となった。
物価が上昇し経済も低迷 町には失業者が増えた。
1996年 選挙で初めて共産党以外の政党が勝利した。大きく民主化にかじを切り 西側諸国との関係は改善された。
国営企業の民営化を図った。しかし改革を一挙に進めすぎた為 かえって経済を悪化させてしまった。
2007年にEUへの加盟を果たす 以降 外国からの投資が増え 大型ショッピングモールの建設など建設され高度経済成長を迎える
しかし2008年のリーマンショック(アメリカ発の金融危機)により失速する
500年前に混入された 壁にはルーマニア革命の銃撃戦の弾痕が残っている
<目次>
1基本(歴史&料理)
2ドラキュラ伝説と陽気な墓
3ブカレスト
4トランシルバニア
5シギシュアラ&ドナウのペリカン&隣国モルドバ
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