2唐の時代の遺産(西安)
3つのコースが造られた 西安からヨーロッパまで続く道 約7000キロ
西の終着点はローマ 東は長安だった ローマは円形都市 長安は碁盤目状の四角い都市造りだった
唐の時代 10×9メートルの城壁があった 将棋やクルミも中央アジアから伝わった
(慈恩寺じおんじ=大雁塔だいがんとう)
唐の第3代皇帝<高宗>が建てたもの 外壁が厚いため防衛と経典の保管に役立った
三蔵は27歳の時インドから経典を持ち帰った偉いお坊さん
中には三蔵がインドから持ち帰った経典の一部が保存されている
唐のころは5層 今は7層の塔 7世紀中ごろ インドから経典を持ち帰った玄僧はここで翻訳にいそしんだ
西安に戻ってきたときには三蔵は43歳になっていた
帰国後 亡くなるまでの20年間 三蔵は翻訳作業を行った 死の直前まで行われていた
インドから中国へ仏教が伝わってから約600年後 三蔵の活躍もあり 仏教はそのころ中国全土へと広まった
三蔵はのちに西遊記(16世紀、明の時代に書かれた怪奇小説)の話の題材として使われた
シルクロードの終着点 夜9時から ライトアップされ 20メートルの噴水ショーが行われる
こちらもインドからの経典を持ち帰ったものを保管する建物
もともとは15層で45メートルあったが地震や戦火で崩れてしまった
今は13層で40メートル弱となっている
中の巨大な釣り鐘は宋の時代に作られたもの 昔は毎晩この鐘が鳴り響いていた
古いレンガで出来た砂色の五重塔
6000人中 5200人が無事 唐にわたれた
1288年生まれの日本人 現存する最も古い日本と言う字が刻まれている
752年 鑑真と阿倍仲麻呂は日本へ渡航(失敗)
その阿倍仲麻呂(唐の官僚にまでなった日本人)の墓はまだ見つかっていない。
泰陵 地下に太宗の墓と壁画がある
玄宗時代の宮殿跡 阿倍仲麻呂の石碑もある
日本からの留学僧が5人過ごした寺
空海もその中の一人 境内には日本人が植えた桜並木が続いている
自然の地形を生かした丘に作られた墓
唐の第3代皇帝 高宗と女帝の則天武后の墓
参道には高さ5~6メートルの石像がいくつか立っている
乾陵 8世紀(けんりょう西安から約85キロ)太宗と楊貴妃の墓 収納できないほどの財宝が眠っているとされる
翼を持った馬ペガサスの石像も 清の時代(1644~1912年) 農民たちの反乱により61体の石像の首がはねられた
西安から50キロ離れたところに玄宗と楊貴妃と その一族は逃れた
しかし警護をしていた兵士にまでそっぽを向かれてしまう
楊貴妃は逃亡先で亡くなる 玄宗は楊貴妃の死の翌年 馬かいに墓を作った
墓は当初 土を持っただけの墓だったが その土は美人になる土として多くの人に持ち帰られてしまう
やむなく 煉瓦作りの墓へと変えられた そして丸いおわん型の墓となった
園内には玄宗と楊貴妃が共に過ごした<沈香亭>も残っている
唐は第6代 玄宗(712~756年) のころよりいっそう栄えた
さらに美人の妃(きさき)楊貴妃が登場する
唐は玄宗のころ絶頂期を迎えるが やがて世の中は乱れ唐も衰退していく
玄宗は権力と富を一族だけに与えたため 部下の反乱が相次いだ
やがて玄宗と楊貴妃は都を追われることになる
華清池は玄宗と楊貴妃が生前 過ごした温泉所
第3代の高宗の頃 唐は栄えていた
高宗が残した石碑がある ただ風雨にさらされ消えかかっている
一方 則天武后の石碑は書くものが多すぎたという理由で何も刻まなかった
のちにほかの人が刻んだ文字が残っている
2羽の鳥が向かい合っている壁画はペルシャが起源とされている
女官たちが書いた壁画 唐の時代のもの
奈良の宝塚古墳と類似性がある
地下に通路と壁画が残っている 永泰公主の墓は乾陵内にある
(2000年) 不思議なソグド人(イラン系の商人 ペルシャ人)の墓が見つかる 約700年前の物
馬型や人形の陶器
ラクダやペルシャ商人の人形 当時の屋台料理の半分はペルシャ(現イラン)料理だった
1秦の始皇帝と兵馬俑(西安)
2唐の時代の遺産(西安)
3西安(陝西省)の その他の情報
4敦煌 莫高窟(甘粛省)
5甘粛省の石窟群
6砂漠の遺跡(ローマの子孫)(甘粛省)
7甘粛省のチベット文化圏
8蘭州ラーメン(甘粛省)
9西寧 タール寺と青蔵チベット鉄道(青海省)
10青海湖と文成公主(青海省)
11寧夏回族の観光情報
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